先生はつぶれない

たまに通る道に、某国の料理を出す店ができた。いかにもおいしそうで、行ってみたい。でもいつ見ても駐車場に車がない。人がそこに入っていくところを見ることもない。躊躇してしまいなかなか入れない。徒歩で行ける場所ではなく、そこに行くためだけに車に乗ってでかけるほど日常生活で強く思い浮かべているわけでもなく、いつもなかば偶然通りすがり、運転中に横目に見つけて、「ああ、そうだった、行きたいけど、今日はちょっとなあ、いきなりすぎるなあ」という気持ちになって、結局スルーしてしまう。

そうこうしているうちにその店はつぶれてしまった。

罪悪感をおぼえないわけではない。しかし、そりゃそうだろ、という気持ちもある。カスタマーの正直な感想として、あそこは入りにくかった。何度か通えばきっと好きになった店だったろう。でも、入れなかった。

「そういうサービス」を私もおそらくいつかどこかで提供してきたのだろうか、ということを思う。



努力して誠意をこめていいものを淡々と提供していても、たとえば「敷居が高い」とか、あるいは「窓から中が覗けない」といった理由で、閑古鳥しか鳴かないということは往々にしてある。でもそれはきっと客商売に限った話ではないのだ。

こうしてブログに何かを書くことにしても。

あるいはSNSにひとこと小さくつぶやくにしても。

本人がどれだけ思い入れて、どれだけ真摯に向き合っていたとしても、受け取る側が寄り付かないから結局伝わらない、ということはあると思う。

ましてや、教育においてをや。



「ここにおもしろいものが連綿とつながってある」ということを、どれだけおもしろそうに提示できるかによって、戸口を開けて入ってくる学徒の数が変わる。

おもしろそう、だけでよいだろうか。

やさしそう、も必要か。

手軽さについてはどうだ。

後戻りができそうな感覚も必要か。

人任せではなく自分である程度カスタマイズできると思わせることも役に立つだろう。

いや、「思わせる」ではだめなのではないか。

こちらが意図して誘導しようとするそぶりを控え、あくまで学ぶ側の意志でえらびとれるような雰囲気を醸し出すことが必要なのではないか。


看板のデザインを考え、人の往来の多そうな時間にいかにも繁盛しているような雰囲気を醸し出し、いいものを提供し、口コミで広めてもらう。飲食店を経営するかのように教育のことを考える。そんなとき心の奥底から響き渡る声がある。


「――教えるほうがどれほど手を尽くし工夫をこらそうが、教わる側が自在に受け取りたいことを受け取り、勝手に学びたいものを学んでいくのだから、そんなにしゃちほこばらなくていいんじゃないの――」


そうだったらラクだなと思う。

そして、あのつぶれた店のことを思う。

いいものは必ず伝わると思ってはじめたはずの店だったろう。手書きのあたたかい雰囲気の看板は、信号待ちをする運転席からよく見えて、ぼくは確かに、その店で飯を食ったら素敵だろうなと何度も考えていた。道産食材を用いて、店主のふるさとの味をうまくアレンジして、札幌の人間にも某国の雰囲気を楽しんでもらいたいという、愛情とホスピタリティが店の前面からにじみ出るかのようだったあの場所に、私は結局、「なんかまあいつかそのうちでいいかな」くらいの理由で、訪れなかったのだ。