蚊柱

ついさっきまで、このブログ用に、「病理検査室のシステムにかかわる話」をえんえんと書いていた。しかし最初から最後まで病理医にしかわからない内容になってしまい、こんなもの、ブログではなくどこかの会報に書くべきだよなと自らつっこんで消したところである。まったく、もうちょっと考えてから書き始めなさいよ。ああ、すみません。考えてから書いたことがあまりないんです、書きながら考えるほうが多いんです。はっ、なにをえらそうに。ああ、すみません。



考える前に書く、考え始めるために書く。ポリシーではなく手癖である。いいとも悪いとも思わない。ちょっとだけ悪いところのほうが多いかもしれない。けどいいこともある。そもそも直そうと思っても直らない。だから手癖なのである。

近頃は、書く前によくよく考えて考えて、考え終わったあとのことを書きたいな、と感じることも増えてきた。

でも、感じるんだけど、実際に書くまでにはなかなか至らない。

深くしつこく考えようとして、実際に、考えてみる。その後、「よし、ここまでは書けるかも」と思い至る。しかし続いて、「ここまで書けるな。たぶんこういう文章になるだろう。そしたら次は、何をどう考えるだろう」というところに思考が及ぶ。せっかくならもう少し先まで考えてからにしようかな、などと思い直す。そうこうしているうちに書くタイミングを逃す。いつまでも考えている。いつまでも書き始められない。

しょうがないからブログには、ずっと考えていることとは別の話を書く。まだ考え始めてないことを書きつける。書きながら考える。そうすれば、ずっと考えていることを維持しつつ、別の文章が組み上がる。まあ、なんか、そうやって、書いた文章がたくさんあるのだと思う。





いやー違うかも。今の話。ぜんぶ違うかも。





連綿と考えている。結論の出ない話を考えている。もやもやと考えている。ときどき思考がぐっと濃縮されてなにかの輪郭が見えそうになる。しかしまたふっと淡くなって体積がでかくなりピントがボケる。蚊柱のような思考。

あるいは、安定しない、基盤のない、固定できない、質量だけがあるが落ち着かない話を考えている。どこかがガラリと欠けて全体がゆらぎ、傾く。次の面が現れる。またそこが刺激を受けて次にガラガラ崩れる。バランスが変わる。氷河のような思考。

そういうものを、そういうものの本体を、私はこれまでまともに書いたことがない。書ける気もしない。そこまではいっしょだ。

しかし、かといって、ブログやSNSで、「さあー書き始めてしまえばあとは野となれ山となれ!」みたいに書きつけるものが、そういった蚊柱や氷河とまったく別のものかというと、そんなことはないのではないか。

蚊柱からハミ出た蚊の一匹を目で追ううちに、いつしか自分の手に止まっていたのでピシャリと叩いたら、私の血と、それ以外の液体とが広がる、そういう風景をブログやSNSに殴り書きしているのだとしたら、それもまた蚊柱とちょっとだけ関係のあるなにかではなかろうか。蚊柱の全体像を決して反映はしないのだけれど、まごうことなく蚊柱の一部であった何かを潰した液状成分を書いたことにはならないか。

氷河から崩れて落ちた氷の塊が波間に揺れてとぷんとんとぷんとこちらにやってくる、そのいびつなクリスタルを見ているうちに海水温によって溶かされて少しずつなくなっていく様子、多角柱状だったものが紡錘形になり、卵状になって、境界があったもの、三次元だったものが、ある瞬間にふと二次元を瞬間的に通り過ぎてゼロになっていく過程、そういう風景をブログやSNSにあわてて書き留めているのだとしたら、それもまた氷河とちょっとだけ関係のあるなにかではなかろうか。氷河の全体像を決して反映はしないのだけれど、まごうことなく氷河の一部だった何かが消えて海を薄めたプロセスを書いたことにはならないか。




分節するのが仕事である。分類するのが職能だ。だからすぐにうっかりする。うっかりと私の思考も分画しているものだと錯覚する。

でも本当は違うのだ。私は考えて書いて考えて書いてをそれぞれ分けているようなそぶりで、なにか、かっこうをつけているだけで、本当は、蚊柱であり、氷河なのである。不定で不定形で不安定で不安。拠り所なく保証もなく、結実しないし構造ももたらさない。生命とは少しちがうやりかたで、熱力学の法則に逆らうでもなく、ただ、なにか、不思議な塊を作ったり壊したりしている。その途中がさみしくて、もったいなくて、まあ、写真でも撮っておくかといって、光の射し方を気にしているうちにあらゆる形象はうつりかわっていく。だから急ぐ。あわてる。浅慮に書き留め、書くことでまた欠けたり集まったりする。