わたしはときのせいれいころーにゃ

新しい研修医がやってきた。仕事場の雰囲気がまた少しだけリセットされる。一度中ボスくらいまですすんだゲームのデータを消してまた最初からはじめるような気分で、私はチュートリアルの人を演じる。いつもと同じように。省略をせずに。


ラダトームのまちに ようこそ。


パソコンのログインパスワードの共有、画像編集ソフトの使い方、プレパラートに点をうつプラマン(ぺんてる製。プラスチック万年筆の略)の置き場所、癌取扱い規約や腫瘍病理鑑別診断アトラスの紹介。

このクラスの顕微鏡では接眼レンズの幅をあわせることができる。接眼レンズの左右のピントをそれぞれいじることもできる。コンデンサーはここにある。対物10倍レンズ以降はこれを入れるように。絞りがずれていないことを確認。当院ではプレパラートのラベルは右側に置くと消化管検体の粘膜が上にくる向きになります。

病理医をいちからはじめるための最初の数歩。

最初?

いまどきの研修医は熱心だから、学生時代にすでに顕微鏡をみる訓練をしているので、じつは最初でもなんでもない。今回やってきた研修医も、これまで、忙しい研修の合間を縫うように、他の研修医と連れ立って病理の部屋を訪れ、受け持ちの患者の病理組織像を見せてくれと申し出てきた。すでに助走ははじまっており、体は十分に温まっている。顕微鏡の使い方も、取扱い規約の存在もよくわかっている。そういう人に、何を教えるか。

わかっていても最初からやる。知っているであろうチュートリアルを省略しないですすめる。このほうがいいのかなと思い始めたのは、ここ数年のことだ。

「もうわかっていると思うんで、いきなり症例をガンガン見ましょうね」とやってもいいのだけれど、そうすると、この研修医がいずれ専攻医となり専門医を取得して研修指導医になったとき、すなわち「いちから他人を教える立場」になったとき、かつて私が教えていたことをロールモデルに、あるいは反面教師にしようと思ったら、私は序盤を省略すべきではないのではないか。

「私が若手だったときは、研修の手始めにまずこれとこれを教わったものだよ」が言えたほうがいいのではないか。




最近考えるのは時間の流れのこと。先をみすえた医療をすることが大切なように、先をみすえた教育もしたほうがいいだろうと感じる。今この瞬間に、研修医が退屈そうにしているならば、それはなんらかの手段で改善しなければいけないと思うが、「将来おそらく必要となるたぐいの退屈」なのであれば、本人にそう伝えた上で、ある程度の退屈を許容してもらうことも必要なのかな、ということだ。

まあ、こうやって、歴代のつまらない講義や実習ができあがってきたのだろうなということは想像に難くない。

でも省略ばかりしていてもだめなのだ。今スタイリッシュに見えるという理由だけで、丹念さをおろそかにしてしまうと、伝承は脆弱になり、継承は断片化する。



Nintendoのゲームのチュートリアルが優れていることは論を俟たない。マリオを一目見ただけで「ああ、右側に走っていけばいいのか」とプレイヤーに気づかせる工夫。序盤のクエストを順番にこなしていくことでリンクの「機能」が次々と明らかになっていく構成。ああいうのを見るのが好きだった。私はおそらくチュートリアルを作る側に対して永遠のあこがれがある。

一方で、ファミコンの「シェラザード」や「ゾイド」のように、チュートリアルがうまく機能していないためにノーヒントではクリア困難なゲームの魅力が全くなかったかというとそんなこともなかった。いかにゲーム制作者の気持ちにログインし、書いていないヒントを解き明かすかというのも、わりと嫌いではなかった(けど結局は攻略本頼みだったが)。

私は、今の病理診断学の教育システムの一部は、シェラザードほどではないけどチャイルズクエストくらいは難解だなと思うことがある。「ちくわのあな」をノーヒントで解いた人間はいないだろう。しかし当時のぼくらは、今から思えばあまりに貧弱な「インタークラス」のネットワークを駆使して、なんだかんだでああいう不親切なゲームを解いていたのだからなんとも豪気なことである。研修医も別にそんなに甘やかさなくてもいいのかもしれんが、なあ。