我々がいわゆる「珍しい」症例や、「教育的な」症例に遭遇したときには、それを自分だけで抱え込むのではなく、同僚、地域の病理医たち、さらには日本全国の医療従事者にむけて「供覧」をする。
供覧、すなわちいっしょに見る。
これによって、「50年病理医をやっていても出会わないような激レア症例」であっても、たいていの病理医が「知識としては知っている」ということが頻繁に起こる。
2500人の病理専門医が今日も日本のどこかで非常に珍しい症例に遭遇しており、それをわれわれはいつも「供覧」のかたちで体験する。
「供覧」という言葉を、私は医者になるまで使ったことがなかったが、今は毎週のように用いる。
自分の出会った症例を誰かに見てもらうことは日常だ。
「みんなで見る」ということが極めて大切なのである。
「見る」ということは、目の前にあるものと自分の脳とが、目という媒介物を通して一対一で接続する行為であると、昔の私は考えていた。
しかし、たぶん、そうではない。
目の前に事実や真実があり、それを私の脳が正確に写し取るとか、逃さず選び取るといったことは、まず起こらない。
私の目は、はじめて目にしたものを「あるがまま」には見てくれない。
軽重を問わず情報の多くを取りこぼす。
一部に執着してそこばかり見てしまったり、レイヤーの多重性に気づかなかったり、錯覚したり、失認したりといったことが必ず起こる。
こういった誤認は、「はじめて目にしたもの」だけに起こるわけではない。一度でも知覚した経験があるものに再会すると、より偏った、ねじまがった判断をしがちだ。
なんらかの先入観を、目の前にあるものに勝手にかぶせたり、のっけたり、着せたりしてしまう。決して「あるがまま」に見ることがない。
人の脳や五感というのは、必要のない情報を切り捨て、圧縮し、編集をして、切り貼りをする。そうやって「あるがままの事実」からかけはなれた、「物語性を帯びた主観」というものが構築されてはじめて、人間の意識は世界を豊かに認識できるようになる。
ビールがおいしく感じるなんてのも、その最たるものかもしれない。あんな苦いものを私の味覚はいつからおいしいと誤認するようになったのか? まあ、ありがたいことである。ありがたい錯覚である。
さて、ビールのように「自分を幸せにしてくれる誤認」はいいとして、目の前にあるものから十分に/適切に情報を取得できず、かたよったアクセスしかできないということは、ある種の仕事にとっては確実に欠点となるだろう。
どのような仕事か? たとえば病理診断だ。
病理診断というのは、そこに起こっていることを余すことなく記載してなんぼである。再現性が求められる。普遍性が求められる。
そのために必要なことはなにか?
当然のことながら、「目の前にある細胞を、あるがままに見て記載すること」である。しかし目の前にあるものを「あるがまま」に見るというのは難しい。
そもそも細胞診断というものが、本来の細胞とは関係のない、人工的な「色付け」をした状態で行われている。細胞質が赤紫だとか核が青紫だとかいったH&E染色の色調からして、私たちに都合よく調整されている。
おまけに、やれ細胞の「顔付き」がどうだとか、「雰囲気」がどうだといった感じで、病理医以外にはなかなか理解がむずかしい、感覚的で主観的な感性が、病理診断の現場ではかなり幅をきかせている。
細胞の分化が悪くなって、どこそこに浸潤をして、どこに入り込んでどっちに転移をしたなどと、「見てきたかのようなストーリー」を創出しながら診断を進めることもしょっちゅうだ。
ぜんぜん「あるがまま」になんて見ていない。
繰り返しになるが、「見る」という行為は、決して目の前にあるものと自分の脳とが一対一で接続する行為にはなっていない。
目の前にあるものに対して、脳がかなりでしゃばって、都合よく切り取ったり編集をしたりして、結末までわりと自分勝手に突っ走っている。そのような独善的行為が、「目」という媒介物を通しているというだけの理由で「見た、診断した」と呼称されているのだ。
このような人間の悲しい本能に対して、私たち病理医が考えた「抵抗」のひとつが、供覧なのである。
ひとりで見ても、再現性も普遍性も期待できない。だったらみんなで見る。
みんなで同時に見るだけではない。異時性に見ることも必要だ。「誰かがすでに見ている」ということをきちんと利用する。主観的な誰かが陥ったであろう穴を、岡目八目、見極めながら批判的に見る。批評的に見る。
異時性に見るだけでも足りない。異所性にも見る。そっちの立ち位置からならこう見えるだろうな、と把握した上で、違う位置、違う前提、違う先入観を見て違う角度から見る。
珍しいと感じたら供覧の強度を高める。いろいろな病理医によってさまざまな感想が出てくるものをしっかり寄せ集める。
ちなみに、珍しくないものであっても供覧はするべきだ。ありがちな罠というのもある。「典型例」を多くの人と分かち合うことで、また新たな見方がうまれたりもする。
私は、「ある一人の病理医にしか診断できない、難しい病気」というのは存在しないと思っている。診断が困難な症例というのは実際に存在するのだが、それを優秀な病理医ならば診断できるとか、いいAIを使えば診断できるといった、「真実がどこかにあって、それをきちんと写し取れれば最高の診断ができる」という考え方はとっていない。
ひとりで見てたどり着ける真実というのはありえないと感じる。観測者が優秀か無能かはこの際問題ではない。見るというのはそもそもひとりで完遂しない行為である。
「診断が困難な症例」とは、なんらかの理由で供覧がさまたげられた場所に存在する。
思えば、私がこれまでに出会った「すごい病理医」は、みな、集めたビックリマンシールを見せびらかすようなムーブを、多かれ少なかれ診断の世界で日常的にやっていた。あれ、単なる「オタク器質」だからだと思っていたけれど、違うんだ。彼らは病理診断が供覧という土台のもとに出来上がるものだということを、彼らの言葉でずっと語りかけてくれていたのだ。