利己的な遺伝子なんて本当になんにも言ってないのと一緒だからな

ダンジョン飯の最終巻(14巻)は、ほんとうにすばらしい「巻き取り方」をする。絵巻がきれいにしまわれた、といった風情に満ちている。

近年でいうと「ちはやふる」や「鬼滅の刃」は本当に美しく完結したし、「阿・吽」も大河ドラマとしてあれ以上の結末はまず考えつかないほどのきれいな終わり方をした。そして、ダンジョン飯や違国日記が美しく彫刻されきったことにも、心から感謝している。



あたりまえの話だが、すべての作品がほどよい濃度のまま終わりまでたどり着けるわけもない。

ちかごろは、風呂敷を広げるだけ広げてそれっきり、という創作物が増えた。SNSには今日も設定ひとつでバズってそれっきりのマンガが並ぶ。まるでディアゴスティーニのように次から次へと新しいシリーズが創刊しては、少しずつ更新期間が遅くなって消えていく。

マンガに限った話でもない。

クールごとに50本も60本もアニメがつくられ、その一部はマンガ原作であるが、最後まできちんとアニメになるマンガは数えるほどしかない。小説・ラノベの世界などもおそらく似たようなことになっているのではないかと思う。


「きれいにしまわれる」ことの難しさ。


もっとも、冷静に考えてみると、世の中に存在するリアルなストーリーはそもそも打ち切りがベースなのかもしれない。きれいに辿れるメインストーリーなどないし、都合よく回収される伏線などない。むしろどれが伏線になるのか最後までわからない、トランプの「ジジ抜き」的な非開示の前提が、私たちの前に無数に転がっていて、私たちはどれに手を伸ばしたらよいのか、どれに後をつけられているのかなど一切わからず、教えられず、あたふたと右往左往しているうちに人生を先に進めてしまう。


ところで近ごろのマンガやアニメには「日常系」も多い。骨太のストーリーや起承転結の展開はないのだけれど、ハマった設定の周りにあつまるほがらかな人々の反応を見ているだけで楽しい、という平和な創作。

しかしこれも、言うまでもないが、私たちの暮らす日常とは似て非なるものである。どのへんが異なるか。創作では女の子ばかりが出てくるとかそういう次元の話をしたいわけではない。ポイントは「変化」にある。我々を取り囲む環境因は創作物よりもはるかに速いスピードで刻一刻と変化する。「ハマった設定ひとつでいつまでも見ていられる」などということは私たちの暮らしでは通常ありえない。その意味でいうと、中学校三年間とか、高校三年間などといった、学業の区切りにすぎない小分けされた数年間で設定を維持できるのは青春期だけの特権だ。


人生は創作物とはだいぶ違う。なのになぜ我々は創作物を愛するのだろうか。

なぜ私たちの脳は「回収される伏線」を安易によろこび、「王道の展開」に心をうばわれ、「争乱から平和へのあしどり」を追うことにわくわくとし、「エンドマーク」までの物語を本能的にたどってしまうのか。

「なぜ」と書いたが、実際にはこの問いは、「私たちの脳がそのようになっているおかげで、なんらかの不利益を回避できた」という回答以外に答えようがない。そういうのを好む我々だからこそ、今、「もしほかの脳だったら被っていた可能性があるつらいこと」から身を避けられている、と考えるべきであろう。


私たちは四本でも三本でもない二本の足で動き回ったおかげでなにかの不都合を感じずに暮らすことができている。エラではなく肺を使うことでなんらかの苦難から身を隠すことができている。草食でも肉食でもなく雑食を選んだことで知らないうちにたどり着けた場所にいる。それとそう遠くない思考の様式をもって、「王道展開も、ヤマやオチのない日常系も、萌えも、ホラーも、どれにも該当しない日常をおくりながら創作の世界だけでなんらかのホルモンをダダ漏れにしている」ことに、おそらく不利益を回避できるような偶然の積み重ねがあったのではないか。ダーウィン以降のわれわれはそういうものの考え方をするようになった。アリストテレスだったらこの話をどう聞いたのか、たずねてみたい気持ちは正直ある。