思考の通り道

食って出しているうちに人生は終わる。「人間はうんこの通り道」と言ったのはマキタスポーツだ。神社の前に伸びる参道なんてのは両脇に店が栄えるものと決まっていて、そういう通り道になれるものなら、なってみたらよい。

大通駅で、駅にすべりこんできた地下鉄車両のドアが開くなり大量の人がメリメリと押し出されて一気に降りていくのを見て、私は一瞬、宿便が排出されたときのような共感的な知覚を得た。通り道にも快感はおとずれるのだ。

もっとも地下鉄の蠕動は短期的には一方通行だが少し引いて観察すれば往還である。夕方には逆にさきほど「肛門」だった部分から人が飲み込まれていくことになるわけで、このアナロジーはあまり適切ではないかもしれない。

とはいえ私はたとえ話をもちいて地下鉄から人が出てくるさまをおもしろおかしくブログに書きたかったわけではない。目的があってたとえを探したのではない。「排便時の快感を異所性に/不如意に得た」のである。意図ではあるが無意識であった。能動性はあったがアンコントローラブルであった。たとえたかったのではなく「たとえさせられてしまった」、「ふとたとえてしまっていた」、「いつの間にかたとえらさっていた(北海道弁)」。

世界を認識するための意図。意図なのだから自分の思い通りにできるだろうと思いがちだがどうやらそうではない。意図とは、私という有機体と環境とが接合した部分から半ば自動的に生じる。そうやって生じたものを遅らせたり先延ばしにしたり抱え込んだり編集したりできるのが人間の脳の使い勝手の良さで、知性が単なる反射とは一線を画すポイントであるが、環境によって「知覚させられている」という側面は忘れてはならない。



アフォーダンス理論の本を再読。人間の知覚は、感覚器をもちいて環境からなんらかの「刺激」をうけとり、それを脳内でうまいこと編集することで得られる……という私たちにとっていかにも自明とも言える話を、生態心理学はゆさぶる。知覚というのはもっと全体的なもので、一般的に言われているような「視覚や聴覚や触覚が、光や音や固さを別々に収集し、それを脳が統合する」のではないという。要素を細切れにして部品ごとに分析した結果を持ち寄る還元主義的なやりかたでは「環境をまるっと知覚する」ということがとらえられないと警句を発する。

環境は無数の情報をもっている。我々はその環境にむけて「意図」をぶつけて探索して、環境を五感で分節せずにまるごと知覚しにいく有機体である。アフォーダンス理論はこのように、「全体は要素の単なる集合体ではない」という、要素還元主義への呪詛のような感情をちらちらとこちらに提示する。20世紀に哲学の人びとがあまりに科学に殴られすぎたから、その反動で還元主義全体がだいきらいになってなんとか反論してやろうとひねり出した論、と皮肉で斬ることもできなくはない。


『形態学の復権』を書いた吉村不二夫は、還元主義と全体主義との融合に関してこのように述べた。

”素粒子という建築ブロックを基本要素として宇宙が建築されるとする物理化学的世界観は、断片化の極限とみなしてよいであろう。しかし、Bohmの示すところによれば、最近の(※市原註:1987年の本である)高次の量子論的物理学では、全体の中で原子を「流れ運動」として捉え、最終的には消えてゆくものとする。原子がいかに形成され、維持されるかということは、全体の中での原子の位置、構造と機能との反映なのである。それゆえ、現代物理学がもたらした自然に関する洞察は、実は形相因と目的因とを強調しているアリストテレスの自然観と本質的には同じ立場、すなわち断片化と全体化を止揚した立場である。”

ああ、また出てきたアリストテレス。

情報システム論やらオミックス解析やらの話をすると、最後にはたいていアリストテレスまでたどりつくし、近頃はそういう網羅的検討の話から遠いところにあるはずの本を呼んでもなぜか文中にアリストテレスが出てくる。世界という図書館が私にアリストテレスの「意図」をアフォードしている。

解剖学、組織学、分子生物学、素粒子学、科学がどんどん拡大倍率を上げるにつれて、忘却の彼方に取り残された「肉眼で分類することが可能な範囲での巨大な自然科学」は、私の日常にからみつく形態学 morphologyのただれた魅力とアナロガス、というかほぼホモロガスなのだろう。だからアリストテレスがぴょこぴょこ顔を出す。そこから目を背ける気にはならない。しかし没入したいかというとそれも微妙だ。まだちょっと懐疑的なのである。ほんとうにアリストテレスなのだろうか、と。

私はアフォーダンス理論はけっこうおもしろいと思う。ただ、たとえば「紙に書かれている文字」を人間がどのように知覚しているかについて、アフォーダンス理論からはあまりおもしろい見解が引き出せないのではないかという不満も持っている。ならばデリダに聞けばいいのかもしれないがそういうことではないのだ。

私たちが細胞を薄切りにして、恣意的に色を付けてそれを顕微鏡で見る過程で、プレパラート上の細胞配列は私に何をアフォードする? 切り出しや標本作成、特殊染色や免疫組織化学を使うことは「意図」に含まれるのか? これらについてもう少し掘り下げた考察をしてみたい。しかし、私という有機体の全体が、形態学という巨大な環境を手探りできるほどうまく成熟できていないのではないかという恐怖。私は今わりと正直に述べると立ちすくんでいる状態である。私たちは細胞の意味を引き出すものなのか、それとも私たちは細胞から意図を引き出されるものなのか。