語尾がざますの報告書を読んでみたいきもち

私は病理診断の報告書を「ですます調」で書いている。「だ・である調」で書く病理医もいる。私の知る限りでは1/3くらいの大学病院が「だ・である調」を採用しているように思う。ただ実情は定かではない。アンケートをとったわけではないからだ。

私は「ですます調」派なわけだが、「だ・である調」で書いてある病理報告書をみると、かなり強い違和感を覚える。そういう人もいるよねー、どころの騒ぎではなく、「げぇっ、だ・である!?!?」とブロッケンJrやリキシマン(ウルフマン)のように声をあげて驚いてしまう。どう考えても「ですます調」のほうが、私の考える病理診断にはマッチする。「だ・である」で書いている報告書を読むと生理的にウッとなる。

病理医諸君に言いたい。その報告書を読む相手のことを考えてみてほしい。自分の働いている場所とそう遠くないところにいる医療従事者がこれを読むのだ。あの医師やあの技師がこれを読むのだ。であれば、ホスピタリティの気持ちをもって「ですます調」で書くのが当然ではないか? たとえばの話だが、臨床医からあなたのもとに届いた仕事メールが「だ・である調」だったらなーにを小癪な、と鼻白んでしまわないか? 想像するだけでイラッとしないか? なのに、こちらから提示する病理報告書が「だ・である調」で許されるなんて、それはちょっと、いったいどういう了見なのか? 他人が「だ・である調」で書いた病理診断報告書を読むといつも、口には出さないが顔にはたぶんいろいろ出る。

しかし冷静に考えると、病理診断報告書を「だ・である調」で書くスタイルも、わからないではない。

病理診断書を「だ・である調」で書いている人は、おそらく、病理診断を「学術的な態度」で行っている。論文や教科書は基本的に「だ・である調」で書くのが当然であり、そういう仕事の延長線上に病理診断を置いている。臨床医をはじめとする医療従事者から託された細胞に対して、みずからの学術的能力をとどこおりなく発揮し、普遍性が高く深度の深い報告を、「まるで教科書のように頼れる存在になりきって」書くとなると、「だ・である調」になるのはある意味当然かもしれない。

あと、海外の病理報告書、たとえば英語圏ならば、そもそも「だ・である調」と「ですます調」の区別はない。フォーマルな書き方に沿ったイディオムを選ぶ、みたいなことはあるがそのような微調整は日本語における語尾の調整とはちょっと異なるだろう。病理診断は基本的に英語ベースであり、日本語で書くにあたっても脳内プロセスが英語で進んでいることはあるので、そういう人のレポートが「だ・である調」になることに違和感はない。

したがって、東大病◯とか神戸大学◯院のような(ちゃんと伏せ字にして偉いと思う)、病理診断を「だ・である調」で書いている病院のことも理解はできる。最高学府の仕事には学術的な権威が必要だ。そういう大学病院出身の若い病理医が地方のバイトで「だ・である調」の病理診断報告書をばかすか出しているのを見ても、うん、大学時代の勉強成果をいかんなく発揮しているんだよね、と温かい目で眺めることは、理論上はできる。

できるが、自分の報告書が「だ・である」になることはない。これはもう一生揺るがないと思う。

私にとって報告書とは、もはや交流の場を通り越して生活の場だ。駅を歩いていて知らない人に声をかけられて道を尋ねられたら、(もしや今はやりの詐欺かなにかか?)といぶかしがっていても、必ず敬語で受け答えをする。どうしましたか? 道ですか? なるほどあちらに見える看板がわかりますか? そうやって相手と距離感をはかりながら、自分の渡せる知識を相手に吟味してもらう。袖振り合うも多生の縁だ。まして患者を間においてふれあう医師と私たちとの関係においてをや。



ところで今にして思うと私はこのブログを「だ・である調」で書いている。病理診断報告書はぜったいに「ですます調」なのに、ブログを「だ・である調」のままでよしと思っているのはなぜなのか? 仕事だとおもてなしの心を発揮するけれどブログの読者にはそんなものいらないだろうとたかをくくっているとでもいうのか? いや、そうではなくて、たとえば椎名誠とか浅生鴨とか柞刈湯葉とかが、「だ・である調」の随筆・随想を書いていたからといって、それを私は居丈高だともエラソーだとも思わないわけで、ブログならば「だ・である調」であっても親密さとか熱心さはかもしだせるのではないかと思っているわけだ。なぜ病理診断書だとそうはならないのか?

いや、まあ、診断書だからな。デフォルトがエラソーなんだよ。そこに「だ・である調」までのっけると、もう「えらそさ」が私の考える臨界点を超えてしまうように感じるんだよ。だんだん理屈が伴わなくなってきた。エラソーに書いたが要は好みの問題なのである。