チククの描き込みは鋭いぞ

何年ぶりだろう。5年ぶりくらいか。ナウシカの大判コミックス全7巻を買い直した。

昔は箱入りのを持っていた。当時、病理にいた後期研修医が、うちを卒業して大学に戻るときに記念に持たせてそれっきり、手元にナウシカがない暮らしを続けていた。先日、札幌にあるわりと有名な本屋「Seasaw Books」にはじめておとずれた際、しれっと本棚に全巻並んでいるのを見て衝動的に購入してその日のうちに読み始めた。

今回読んで印象的だったのはナウシカでもクシャナでもクロトワでもなく「背景の書き込み」だ。1巻の最初のコマから圧倒的なのだ。腐海、砂埃、虫が描かれ続ける本作は冒頭から最後まで鬼のような描き込みに満ちている。何度読んだかわからないはずのナウシカなのだが45を過ぎて今更ながら背景のすばらしさに心を奪われた。

40歳ころの私は、まだ映画の続きを読める楽しみに意識をもっていかれており、背景にまで心がたどりついていなかった。無理もないといえば無理もない。ナウシカは強烈な叙事性と叙情性を兼ね備えたかなり強いマンガである。全編を通してひたすら闇が描かれ続け、風や翼、刃や銃弾の描写以外ではカタルシスもエンターテインメントもほぼないというめちゃくちゃに暗いマンガで、設定は膨大、人びとは好き勝手に動き回り、ミトもユパも僧正さまもみな厚みのある描写をされていて、何度読んでも圧倒的な物語の力を感じるしセリフひとつひとつも練り込まれている。その上じつは背景がすごかった。見えていたはずなのに見えていなかった。

この5年でずいぶんたくさんのマンガを読んできたが、そのすべてと比べてもなお、ナウシカは背景の描写に執念の強さを感じた。『これ描いて死ね』や『東京ヒゴロ』のような良作を通り抜けた今もなお、とっくに接取していたはずのナウシカの背景に驚き、この驚きにたどり着くまでに私はこれだけ年を取らなければならなかったのだということに二重に驚愕した。



人は意図をもって環境にアプローチしてはじめて、環境のもつ意味を受け取ることができる。環境はいつでも私たちに意味を提示し続けているのだけれど私たちがそれに自覚的でいられるとは限らない。ナウシカの背景が私にとってようやく意味を有したのはなぜか。芸術作品の鑑賞においてよく言われる「わかるようになる」ということ、鑑賞力が上がったから、と解釈すればよいのか。私は違うと思う。そういうポジティブな、成長に伴うという感覚ではなくて、むしろ私が「何かを捨像した」からなのではないかという気がしてならない。これまで私の興味は、グレートマザー的/乳房的なナウシカの美しさや気高さ、クシャナを守るために身を投げだした親衛隊のせつなさ、ナウシカの次に風の谷で風をつかまえられるようになった少女、庭で待ち続けたヒドラ、首だけになってようやくおもしろくなってきたというセリフとともに落下していくある人物といった、つまりは「闇の中でまたたく存在」に集中していたと思うのだけれど、いつのまにか私の興味はそこを超え、というか、そこを少しずつ捨てつつある。今の私は、それらのまたたきうごめく人類の少し外側にある、「攻撃色ではない目の色」をした王蟲、怒りと寂しさをあらわしながら蠢き融合しつづける粘菌、1000年を超えてなにごとかを成し遂げる腐海の植物といった、人類とは異なる「意図」をもって我々に静かになにごとかをアフォードし続ける「背景」のほうに、視線を向けるようになった。私はとうとう背景が気になるようになった、それはおそらく、獲得とか克己のような成長で語るべきものではなく、引き算的な過程の末に生じたことなのではないか。背景はいつもそこに同じようにあった。宮崎駿は何十年も前にこれを描き終えていた。その意味が私に届くために必要だった、私に生じた変化とは、削れていくことだった。加える必要はなかった。練り込む必要もなかった。ただ、減らして、おちついて、見渡して、手探りをすれば、そこにずっとそれはあったのだ。