反射で動いたぶん、自由になったリソースを使おう。さっきまでみていた顕微鏡の像を思い出そう。さっきまで書いていた診断書を思い出そう。「~~が、~~が、~~。」のように一文の中に逆説が2回入ってしまっているのはかっこわるい、と気づいて、デスクに戻って仮登録済みの診断文を開いて文面を訂正しよう。電話がかかってきてそれをとりながら、仮登録のF7、はいのF8を押して文章を更新しよう。
慣れ、条件反射、身に染み付いた動作、そういった何もかもが、ときどきうっとうしくなって、私はいつか釧路や旭川で働く日のことを思う。
外勤先の検査室をうろうろと歩き回る。視線とは違う先で手や指が自動的に何かをしている様子を思い浮かべる。きっとぎくしゃくしている。一日の中でものを考える総量が20%くらいは減るだろう。何をするにもいちいち言語化しないとどこにも行けず何も動かせない日々だ。キーボードが変わればキータッチのリズムがかわる。診断用クライアントソフトが変われば診断入力のリズムがかわる。細かな差に気持ちを持っていかれるたび、研究のことも、論文のことも、ブログのことまでもがすべて停滞するだろう。その停滞を突き破るためにやれることはひとつしかない。もっと丁寧に考えるのだ。もっとしつこく考えるのだ。
ただ、思考というのは絶対量があればいいというものではない。深ければいいというものでもないと思う。
各所と過剰に接続し、しかしそのどれにも執着せずに、表層だけの付き合い、ながらの接触、かりそめの関係、匿名の気楽なやりとりで、私がこれまでどれだけの無駄で無為な思考を花火のように勃発させてきたことかと振り返るとめまいがするようだ。しかし、その浅くて広い思考様式が今の私に絶望しかもたらさなかったかというと、そんなことはなかった。そんなことではなかった。そんなわけがなかったし、そんなつもりでもなかった。
私はルーティンに埋没して半自動的な毎日を送るにつれ、うわっつらでクソリプのやりとりをする関係を次第に失い、オートクライン的に自らを賦活して局所の作業効率を高めるオートマタになっていた。釧路か、旭川か、帯広か、函館か、この先の私がどこで働くことになるのかはまだわからないが、いずれ私は人間に戻るために、今よりもはるかに手間暇のかかる職場をさがしてこの居心地のよいデスクを去ることになる。