寝起きに詩

一日のなかで脳内に音が流れていない時間がどれくらいあるのだろうかと気になった。朝起きて意識のピントが合うころにはもう音が鳴っている。それは自分で選曲できるようなものではなくて、サカナクションの『アイデンティティ』のようにきちんとした曲がかかることもあれば、「バナナサンド」(テレビのバラエティ)に出てくる「あーたーま おしり あーたーま おしり あーたーま おしり あーたーま おしり 頭の文字はこ・ち・ら」のこともあれるし、スーパーの焼き芋売り場などで売ってる例のあのビープ音のこともあって、SFCがんばれゴエモン2の城の音楽であることもある。なぜかわからないのだけれど生理用品のCMで歌われている短いフレーズがずっと頭にこびりついている日もあったりして、それらが必ずしも前日の夜に聴いていた曲だとは限らなくて、ままならないものではあるのだが、とにかく何か音が鳴らない日というのはない。

これはどういう機能なんだろう。役に立つものだとは思えない。脳がなにかほかの機能を獲得する際に抱き合わせで獲得してしまった副産物だろうか。

音楽が鳴っていない時間は、「あー、今音楽が鳴っていないなあ」とは意識しがたい。不在には気づけない(話はずれるが、研修医が病理診断報告書を書いたときに「あの大事な項目を書き漏らしているよ」と指摘することは意外にむずかしい)。したがって、私の脳はどれくらい音なしで活動しているのか、その比率は正直よくわからない。けれどもけっこうな割合でなんらかの音が鳴っていると思う。

そして、音楽が鳴っていないときもよくよく脳内に耳を済ませてみるとやっぱりバックグラウンドでなんらかのリズムがずっと刻まれているような気がする。秩序立ったいわゆる音楽的リズムとは限らないし、あるいはもしかすると、耳のそばをながれる血管の拍動音を脳がノイキャンしきれていないだけのものなのかもしれないのだけれど、うーん、脈拍ではなくてやはり何かうねりというか、「拍を取っている」という雰囲気があるように思うし、つまりは曲が流れていなくても音は鳴っている。




私がこうしてブログを書いているとき、さあ、こういう文章を書こう、と頭の中で一文なり数個の文章なりを先に作ってからそれをキータッチするという動きにはなっていない。あくまで私の場合だが、文章を作るやり方は「ネームを先に作ってそれを清書する」のとは違う。文章を最初に生み出すのは脳ではなく、目と指の間の空間なのである。脳から指に「うまいこと前後のつながりが保てるようになんか文章を編みなさい」という委任的な指令を飛ばし、その後、脳のくびきから少し自由になった指がバカスカ文字を叩き出していき、脳がその様子を後方から眺めて、「今のはOK、イキ」「今のはNG、トル」みたいな感じで、ガスガス校正を加えていく、といった流れだ。指がつくる文章の真後ろにスリップストリーム的に伴走して文章の方向を適宜微調整していくというやりかたは、なんというか、スキージャンプにも似ている。ジャンパーがラージヒルからテイクオフして斜め下に向かってすっ飛んでいくとき、ジャンパーの重心は重力加速度と慣性によってほぼ規定されており、それほど大幅には調整できるものではないが、ジャンパーが体や足の角度をうまく変えて維持して空気を捕まえ、多少なりとも飛距離に影響を及ぼしていくという感じ。一連の「何をしても変えられないすっ飛んでいく現象それ自体と、飛行を少しでもよくしようとする能動的な調整との合わせ技で距離と飛型点を出していく」というやりかたは、私のブログの書き方ととてもよく似ている。

この、「指がすっ飛んでいくように文章を生み出していく後ろから意図をねじこませて微調整し、文章をなるべく先の着地点にうまいこと着地させていく」という過程で、私の頭の中にはなんらかの音が鳴っている。なんのためだろうか。あまり関係ない気がするのだが。

始終音を鳴らすためにも脳はある程度エネルギーを消費しているはずである。そうまでして、なぜ音を鳴らしているのかはいまいちわからない。



音は四六時中である。では映像のほうはどうなのかというと、私の場合、脳内になんらかの映像が常時映っているということはない。朝起きてなにかのイメージに包まれるということはまずないし、たとえばこうして文章を書いていても、脳内に風景が展開されていくことはじつはまれである。

これは私の器質だろう。予想でしかないが、似顔絵のうまい人や写真をよく撮る人は、私が脳内で音を鳴らしているタイミングでたまに映像を思い浮かべるのではないかと思う。映画監督などもそういうタイプなのではなかろうか。たずねてみたことはないのだが。




横山光輝三国志で、劉備玄徳が諸葛亮孔明の庵をたずねると、孔明は午睡の最中であり、玄徳は孔明が起きるまで庵の外で立って彼を待つ。目覚めた孔明は少し伸びをするとなにやら詩を口ずさむのだが、子供の頃の私はそれにびっくりした。「起きてすぐに詩!」 しかしおそらくそういう人も世の中にはいるのだろう。何の役に立つのかはわからないが私の脳が常になんらかの音を刻んでいるように、目覚めてからふたたび眠るまでの間にバックグラウンドで詩をつくっている人も、おそらく映画を流している人もどこかにいるのではないかと思う。お互い苦労しますな。変な脳を持って。