違っていてもいいんです

『宝石の国』が完結した日、ハッシュタグを追いかけていると作者の市川春子先生のことを「市原先生」とまちがって投稿している人がたくさんいて笑ってしまった。私は市原なのだがよく市川と呼ばれ、頻度というかありふれ加減でいうとたしかに市川のほうが市原より多いのでまあしょうがないかなあとは思っていたのだけれど、市川の側もたまに市原と呼ばれていたのだということをはじめて理解した。逆はないだろうなという偏見があった。そりゃそうだよな。まちがいが生じるときはいつだって双方向だ。似ているものどうしは互いにめんどくささを背負っている。市原だけが苦労してきたわけではなかった。

ちなみに同じ日、NHKの「あさイチ」で、舞台の都合でお休みを取っている博多華丸のかわりに川平慈英が司会をやっていて、こちらもトレンドになっていた。ものまねされる方がものまねする方の代役で出るというベタベタの仕掛けだが、視聴者は実際こうしてわかりやすく反応して楽しむ。「ものまねされる方の心理学」みたいな新書を出すと1回くらいは重版できるかもしれない、と、ふと思った。


似ているもの、似ていないもの、それぞれをくらべる仕事がある。


2009年の『胃と腸』44巻4号(増刊号)に―――胃と腸というシンプルなタイトルの雑誌があるということに今更だが驚く―――、九州がんセンター放射線科の牛尾恭輔先生が、「早期胃癌と先達者から学んだ形態学の意義」という序説を寄稿している。牛尾先生が30代前半のころ、白壁彦夫・市川平三郎という早期胃癌研究の二大巨頭と邂逅したときの話などが書かれており、医学論文というより滋味深い随想として読める。消化管の診療にたずさわる医療者は探して読んでみるとよいし、医療人類学とか医療社会学をやっている人たちであってもおそらく普通に読めるだろう。

この中に、「消化管の診断学における ”比較” と ”対比” の議論」という稿がある。以下、すこし引用する。


**(引用)**

「広辞苑」では、 ”対比” と ”比較” の違いについて、次のように記述されている。 ”対比” とは、2つのものを比べること、相対すること、であり、その根底には違った性質(または量)のものを並べること、その差異が著しくなる現象を示している。すなわち ”対比” には、違いを浮き彫りにするという考え方が入っている。これに対し ”比較” には、比べること、比べあわせて考えることが重要視されており、その根底には、統一的なものを見出そうとする意図が入っている。ゆえに ”対比” が ”学” として成り立ち難いのに対し、 ”比較” には自然科学、人文科学の分野で種々の ”比較学” が存在している。

**(引用おわり)**


「対比」とは似ていないものどうしをくらべることで、「比較」は似ているところどうしを突き合わせること。そこまで普段はあまり考えていなかったが、「対」という漢字のせいか、確かにそういうニュアンスはあるかもなと納得する。

つづいて牛尾先生は、白壁彦夫(順天堂大学)先生の話をする。白壁先生は、「比較診断学」という言葉を提唱し、当時の消化管医療を文字通り牽引した存在だ。ここでまた ”比較” という言葉が登場する。

なぜ、対比ではなく比較なのか?


白壁先生は、消化管の放射線診断学の創成期において、

「胃の経験を大腸診断に応用できるし、逆に大腸の経験を胃にも生かせる。ここに比較診断学が成り立つ」

「胃における線状、単発、多発による変形も大腸に自在に適用できるし、屈曲や捻れの要素を加味した読影を他部にも応用できる。いわば病像の拡大解釈の方向に進むのである。これが比較診断学の骨子である」

と述べた。

共通点を見出して応用性を高めたいからこその、比較。比べあわせて統一的なものを考えるために、比較。

だから比較なのだ。

胃には胃の専門家が、腸には腸の専門家がいた時代に、それぞれの得た知見を持ち寄りながら、X線という共通の旗印のもと、なにか統一的で系統立った診断学を確立してやろうという気概が、「比較」という言葉の中に込められている。


続けて牛尾先生は、

「これらの思想は、決してただ単にX線診断学にのみにとどまるものではない。内視鏡からみた、また病理からみた比較診断学もある。さらにこれらを統合するものとして、全消化管の比較診断学があると思っている」

と述べている。



私はこれをはじめて読んだころ、自分のライフワーク(臨床画像検査を病理組織像と照らし合わせる仕事)は「対比病理学」だと思っていた。

だから、まずは、「対比ではない、比較だ」と述べた牛尾先生の話に感じ入った。でも、すぐに、「いや、私のやることは対比病理学でよいのではないか」という反発があった。

大義があったわけではない。字義だってそこまで調べていたわけでもない。

でもニュアンス的には、私のやりたいことはやっぱり比較ではなく対比だった。

私は、比較という言葉に、似たところを探しながらも優劣を付けるようなニュアンスを感じていた。あの大学とこの大学を比較するとやっぱりこっちの方が上品だよな、とか、あの野球選手とこっちの野球選手を比較するとこっちのほうが得点圏打率が高いよな、みたいな使用法が念頭にあった。

比較人類学とか比較社会学と呼ばれるものがしばしば「欧米・白人の価値観で、勝手に未開と呼ぶ地域の人たちをはかろうとすること」として怒られてきた歴史を、今ならば思い出してもよいかもしれない。

一方で、対比のほうは、「見比べる二つがわりと違うからこそ、かえって対等」な気がした。あなたはあなた、私は私と各個に成り立っているものどうしをあえて対置・対座・対面させるという雰囲気の言葉だと思ったのだ。



私の個人の印象はさておいたとしても。牛尾先生や白壁先生がいうような「比較とは比べあわせて考えること」という辞書的な字義だけで考えてもなお、私は臨床画像と病理組織像を「統一のために」照らし合わせるということに違和感があった。

白壁先生や牛尾先生の初期の業績から数えること30年余、臨床現場における画像診断モダリティの差異はますます増していたし、病理学もまた当初の形態診断学を少しずつ離れて、ゴールデン・スタンダードとして孤高性を高めていた。そのため、「比較によって統一理論を考える」という言葉がすこし空論めいていたという実感がその理由のひとつ。

でもそれだけではない。

私はなんとなく、違う立場、違う視点の者どうしが、お互いに少しずつずれたことをいいながら、対座したまま「第三の視点」に飛躍するという感覚にあこがれていた。比較のように、どちらかをベースにどちらかがのし上がっていくような構図は違うと考えていた。

べつに弁証法的とか止揚とか言いたいわけではない。思弁的で形而上学的なことを言いたいのではない。

そうではなくて、形態学の根幹にかかわる理屈ゆえに、私は「形態診断学を統一する」という試みに反論があったのである。


そもそもX線、内視鏡、CT、超音波、そして細胞像は、いずれも、人体そのものや病気の本質を直接見ているわけではない。よく「病理は病気そのものを見る」とか言われるがそんなことはありえない。

すべて、「お化粧」をしている。体内に起こっていることの一部を強調し、一部を選択し、一部は捨てて、一部は理解しやすいように色を付けたり光らせたりして観察している。X線ならバリウムを流すだろう。内視鏡なら歪んだレンズで表面を拡大するだろう。CTや超音波は何かを当てて反射や吸収で影絵として形態を見ているだろう。そして病理はそのままずばり「染色」を用いる。

物理的・化学的な条件の違い。そしてさらに、各検査にたずさわる人びとの置かれた立場や、それまでに学んできたこと、近頃従事している仕事の内容などによって、見えてくるものの「一部分っぽさ」はすべて異なる。

どれかがベースというわけではないのだ。すべてがカケラしか見ていない。

そこにあらわれた比較という言葉のニュアンスは、私にとっては、二つのものだけを右手と左手に持ち上げて、交互に見比べる程度のものでしかないという印象だった。二つを見比べて最大公約数を見つけよう、くらいの仕事でしかないなら、臨床画像と病理組織像をくらべる仕事はさほどおもしろくならないと思った。

誰もがジグソーパズルを少しずつ持ち寄る。それぞれはお互いに違うピースであり、ダブりはない。しかしまったくみくらべずにジグソーパズルを作ることはない。背景に空があるピースはだいたい近くにあるだろう。この輪郭線がつながるピースがどこか別の誰かによって握りしめられているはずだ。ジグソーパズルは対比によって成り立っている。比較ではない気がした。できあがるものは「類似の先にある統一」ではなく、「車座になっている人びとの真ん中に燃え上がる炎」だと思った。比較ではなく対比すべきだと思った。


市川と市原を比較してはいけない。華丸と慈英を比較するのは失礼だ。すべきなのは対比だろうと思った。私は今もresearchmapの研究キーワードに「臨床病理対比」と書き込んでいる。