男に忘却を勧められた医者

夜に大学関連の飲み会があるので地下鉄で出勤した。ドアの暗闇にうつる自分の耳に挿さったイヤホンが、マスクのヒモでくにゃりと持ち上がっているのを直す。私は今、長期連載マンガのメインキャラの後ろにいる、サブアシスタントの手によって書かれたモブキャラ並みに誰にも見られていないのだけれど、作画が乱れると無駄に注意を集めてしまって読者がメインストーリーにできなくなってしまっては困るから、身だしなみだけは整えておき背景に埋没したいと中火で願っている。

昨晩から聞いていた「熱量と文字数」を聞き終えて、まだ職場に着くまでには少し時間があり、J-waveの燃え殻さんのラジオ「Before dawn」を選ぶと2週間ぶりに大槻ケンヂがゲストイン。新曲の歌謡曲テイストロックの「医者にオカルトを止められた男」の、歌詞の内容がきちんと脳に入ってくるのがふしぎである。大槻ケンヂは燃え殻さんのエッセイのいいところを「読んでもすぐ忘れるところ、忘れ力」と名付けていて、「中島らもさんの書くものにも言えることだけど、読んですぐ忘れるエッセイのほうがなんども読みたくなる」と非常に納得できる名言を放っておりなんだか早漏の男子の言い訳みたいだなと思った。

姫乃たまという元地下アイドル、現文筆家兼アイドルのnoteをいつものように読んでいると、台湾で急にワタナベアニさんに出会った日のことを書いてあった。私は姫乃たまにもワタナベアニさんにも会ったことはないが、違う日に違うタイミングで文章を読む用の箱の中にそれぞれ入れてあって、そこに接点があるなんて思いもよらなかった二人が文章の中でばったり会っているというのがおもしろくて、そのくだりを何度か読み返した。アディダスの黒いジャージを着こなしたワタナベアニさんが姫乃たまにチョコボールといって小さな袋を手渡す。その袋の中身がなんだったのか、今、どうしても思い出せない。読んだばかりなのに。姫乃たまの書くものからは強い印象を受けるが、個別具体はけっこう忘れてしまう。これもまた大槻ケンヂのいうよいエッセイ、というか日記の条件なのだろう。日記は記憶するために読むものではない。

大槻ケンヂの最近書いているもののうち、「本の雑誌」に掲載されているオカルトと本との比率が6:6くらいでブレンドされている随筆は、素因数がやけに多くてどの角度からでも割り切ることができそうな切れ味のするどい名文だ。私は彼の書くものをそこまでたくさん読んでいるわけではないだけれど、「本の雑誌」の連載はすばらしくて早く書籍にまとめてほしいと思う。これまで読んできた彼の文章はどれも、読んでいる間中ずっと脳内にハンディカム的ビデオのパカッと開く液晶部分がとらえた世界、といった映像が流れ続ける、非常に情景喚起力の強い文章で、ではそれが何に似ているかというと、個人的には椎名誠ではないかとひそかに考えていた。そうしたら燃え殻さんのラジオでまさに大槻ケンヂが「昔、椎名誠さんの文章とか、いわゆる昭和軽薄体と呼ばれたものを読んでいて」と語っていて、なるほどやはりと腑に落ちたし、納得しすぎて驚きがなく、今の話をまるごと忘れかけた。でもこの話は忘れなくてもいいんじゃないかなと思って、念のため記憶をもう一周再生させる目的でこうしてブログに書いている。


出勤してメールクライアントを開き、新規のメールをフォルダにふりわけていく。メインの受信トレイには「まだ返信する必要があるメール」だけを入れ、要件がおわると「メール送信者の所属施設」ごとのフォルダにしまう、というのをずっと続けている。今や誰も使っていないMicrosoft outlookから離れられないでいるのは、20余年にわたり分類したフォルダがいまや北海道の市町村の数より多くなってしまい、いまさらほかのクライアントに移行して新規に分類をはじめる気がしないからだ。Gmailが便利だというのは知っているけれど、時系列に並んだメールを「検索で探せるから分類しなくても大丈夫ですよ」と言われたところで、どういう単語で検索をしていいかしばしばわからなくなる私には使いづらさのほうが際立ってしまう。

私は、人の名前を覚えるのが苦手で、ただしその人が勤めている地域の名前なら覚えられるという使いづらい記憶装置をもっている。島根の……島根の◯◯機構の何さんだったかな……新潟の……長岡の……あの顔の人……。ほんとうにこういうやりかたで人を覚えている。たとえば「大阪のバリウム研究会で会って話をした人に教えてもらったあの文献を探したい」ときには、自作のフォルダの「O」のところを探せば、Osaka→大阪◯◯大学、大阪◯◯病院、のように並んだフォルダの中から、目的のメールをそこまで苦労せずに探し当てることができる。けっこうな量の記憶が土地・場所・施設と紐づいている。そうやって記憶するクセがついてしまった。

というわけで今朝もいつものように、昨晩終わったウェブ研究会や会議のZoom URLなどをフォルダにしまうと、ペンディング中のメールがひとつもない状態になった。それがどうした、と思われるかもしれないが、おそらく数ヶ月ぶり、もしくは数年ぶりだ(いちいち覚えていないけれど5年ぶりだとしてもおどろかないし、半年前に一度あったじゃんと言われたらあれそうだったかなと)。進行中の案件が全くなくなったわけではないのだが、メールでやりとりをする案件やコンサルテーションのやりとり、Web会議の予定などが直近にはないということで、肩やみぞおちの重さがあきらかに緩む。そして、昨日までこのフォルダにいったい何を入れていたのだったかということをごっそり忘れていることに気づく。忘れ力だ。私は忘れ力を持っている。ならばきっと、燃え殻さんのエッセイも、大槻ケンヂのエッセイも、姫乃たまやワタナベアニさんのエッセイも、もともと名作ではあるのだが、私が読めばほかの人が読むよりもなお名作になる。なぜならば私は忘れ力を持っているからだ。岸田奈美が何を書いていたのか思い出せない。永田泰大さんのヴァナ・ディール体験記を読み返さないといけない。椎名誠の現連載「哀愁の町に何が降るというのだ。」を毎月欠かさず読んでいる。早く本になってほしい。何も覚えていない。読む準備は万端なのだ。