お役に立ててますか

研修医や専攻医と呼ばれる「病理医のタマゴ」と知り合うことが増えた。10年かけて一人前の病理医を目指す人たち。

訓練のために、実際の患者の病理標本をわたして1日なじませる。1日経ったものがこちらになります(後ろの戸棚から出す)。ほら、だいぶ味が染み込んでいるでしょう?

1~3日程度かけて「下書き」をしてもらう。思うままに顕微鏡をのぞき、細胞を観察し、先輩病理医の診断の手法をPC上で確認しながら自分なりに診断を書く。その診断を、指導役の病理医が添削し、報告書を修正して、完成版の病理報告書として主治医と患者のもとに返す。

「病理診断にそんなに時間をかけていいんですか?」

時間をかけてもいい標本だけを渡すのだ。たとえば、患者が次に外来にやってくる日が2週間後ならば、ある程度余裕があるからゆっくり勉強してもらっていい。

結果を急ぐような診断は最初から研修医には渡さない。そこに分別がある。


研修医や専攻医の「下書き」が、そのまま病理診断報告書として採用されることはない。何かが足りないし、何かが浅いし、何かが間違っている。たとえば以下のような報告書があったとする。医師2年目の研修医が書いたものをイメージして、今、私が考えたものだ。細かい表現は気にしなくていい。


-------
① 横行結腸、EMR、1材。
② 下行結腸、ポリペクトミー、1材。
③ S状結腸、EMR、1材。

いずれも同様の所見で、核の偽重層化を伴った異型腺管の増殖を認めます。Low-grade tubular adenomaです。断端は陰性です。
------


これを私が見て、下記のように直す。

------
① 横行結腸、EMR、1材。
核の偽重層化を伴った異型腺管の増殖を認めます。Low-grade tubular adenomaです。断端は陰性です。

② 下行結腸、ポリペクトミー、1材。
核の偽重層化を伴った異型腺管の増殖を認めます。Low-grade tubular adenomaです。断端は陰性です。背景腸管にspirochetosisを伴っています。

③ S状結腸、EMR、1材。
核の偽重層化を伴った異型腺管の増殖を認めます。一部で極性の乱れた領域がみられます。表層にわずかに上皮のtaftingを伴う部があります。現行の分類ではmixed low and high grade tubular adenomaですが、鋸歯状病変の性質を有する可能性があります。断端は陰性です。
------


私が書き加えた部分のうち、下線はいわゆる「見逃し」であり、太線は「解釈の足りない部分」である。両方という場所もある。

そして、なにより、3つの検体が「いずれも同様」ではないということに注意してほしい(研修医の書く報告書には、このタイプの表現が頻出する)。

病理診断に限った話ではないが、知れば知るほど、「同じ・違う」の区別は繊細になる。「いずれも同様」なわけがないのだ(というと言い過ぎなのだが)。しかし、見る目が育っていない人間ほど、「どれも似たようなもんだな」ということを報告書にも書いてしまう。


さて。

ここまでの流れでおそらくご想像いただけると思うのだが、こんな修正を毎日くらっていると、どんな若者でも心が折れる。いや、年齢の問題ではない。中年だって老人だってがっくりくる。自分は医師免許を取得しており、患者のために、スタッフのために、地域のために、貢献できる立場であるはずが、時間をかけて下書きをした内容がことごとく指導医によって塗りつぶされていく。となれば、いわゆる

自己効力感

みたいなものがグングン下がっていくことは想像に難くない。「自分が役に立てているという感覚」は重要だ。

しかし、残念かつ残酷なことに、病理診断はたかだか5年やった程度ではプロの仕事としては未熟である。どの業界でも言えることだろうけれども、病理診断は特にそうだ。

臨床の研修医は、現場で「ファーストタッチ」といって、やってきた患者に出会って初期対応をさせてもらう。その後、指導医があらためて患者の診察などをやり直したりするのだが、1,2年も経てばファーストタッチの精度は高くなり、初期対応の多くは研修医にまかせられるようになる。

しかし病理診断ではそれはあり得ない。「えっそんな厳しいこと言わないでくださいよ」ではなく、本当にありえない。

そもそも、患者の病理検体に対する「ファーストタッチ」は、研修医ではなく、「臨床医」なのだ。検体を採取した外科医や内視鏡医などが、病理医より先に検体のことを見て考えている。

病理というのは根本的に「後ろに控えている科」であり、求められるタスクに初期対応は含まれない。「より精度の高い目をもって、あたかも臨床の指導医のように、ファーストタッチのあとをカバーする役割」こそが求められている。だからここに研修医の居場所はない。

おわかりだろうか。

病理医のもとに検体がやってくる以前の段階で、医師(主治医)は確度の高い「臨床診断」を付け終わっている。病理診断がなくても臨床の医療の精度はかなり高い。それでもなお、確信の度合いを100%に近づけるために行うのが病理診断である。ファーストでやる仕事ではない。ラストに近いところにいる。だから中途半端な「見立て」や、脇の甘い「所見」でお茶を濁してしまってはいけない。それでは病理診断のある意味がない。

したがって、研修医や専攻医が書く「診断書」には何の価値もない。

下書きをした分で指導医の仕事が楽になるというものでもない。

見直して添削をし、教育になるようなコメントを考えて、とやる分、指導医の仕事はむしろ増える。




このような実情を、研修医や専攻医はすぐに理解する。

自分がまる2日ほど悩んで書いた「下書き」が、見るも無惨な赤線だらけで返却され、圧倒的に細やかで読みやすく置き換えられた「本報告書」がカルテに登録される。それを見ればすぐに理解する。

「今ここにいる自分って、医療にも医学にも一切貢献していないんじゃないかなあ」と不安になってしまう。

とはいえ中には「今は研修中なんだからこれでいい、一日も早く一人前の病理医になるぞ!」と、わりきって修業に励むタイプの人もけっこういる。自己効力感がどうとか関係なく自己肯定感高めで毎日楽しそうに研修している人もいる。だから全員ではない。

全員ではないが、一定の割合で、私たちに向かって、悲しそうにこう告げてくる人がいる。

「先生……あの……今の私って、お役に立ててませんよね?」




と ん で も な い !

ということをすぐに返事する。病理診断科の指導医のとても大事な仕事だと思う。

あえて繰り返すと、研修医や専攻医が書く「診断書」には何の価値もない。

しかし、「研修医や専攻医の目が、指導医とは違う場所から、違うやりかたで、顕微鏡を見たということ」には大きな価値がある。

研修医が病理にいること自体が役に立たないのではない。研修の書く診断書が臨床的に価値を持たないだけだ。

研修医がいるととっても助かる。私たちの仕事の役に立つのだ。




誰かに先に診てもらうということはものすごくありがたいことである。気遣いや忖度で言っているのではない。若者を離脱させないための方便でもない。本当に役に立つ。

病理診断は誰かといっしょに見たほうが絶対にいい。その誰かと「同時に」見るよりも、「ちょっとタイミングをずらして」見ることが一番いい。

そもそも、研修医が細胞を見落としたり、解釈が行き届かなかったりする部分には、非常に高確率に、形態学的な「あや」がひそんでいる。

往々にして、「あーこれを見逃したらだめだよ」という部分を、タマゴやヒナは見落とす。

指導医がそれに気づくとき、「ああ、この微細な差を見出すことに専門技術の8割くらいを注ぎ込んでいるのだな」ということに慄然とする。もし別のタイミングで、自分がこういう所見を見落としていたらどうしよう、と我が身を振り返って気を引き締めるきっかけにもなる。毎日勉強し続けなければいつでもこの研修医と同じ見落としをやらかすぞ、と、勝って(ないけど)兜の緒を締める。

研修医が見落とす所見には、なぜか、臨床医がその時点で気付いていない「臨床をよりよくするためのヒント」が眠っていたりする。

なぜだろう? なぜ、見落としやすい部分にかぎって、臨床的な重要性がひそんでいるのだろう?

それは、先ほど少し書いたことと関係がある。

先ほど私は、「病理医のもとに検体がやってくる以前の段階で、医師(主治医)は確度の高い『臨床診断』を付け終わっている」と書いた。病理診断は、後からやってきて、臨床診断を確認する。

しかし、病理診断が臨床診断をひっくり返す、あるいは大幅に軌道修正するということもたまに起こる。

細胞を見ることでしか、患者の病態のこまかな違いに気付けない場合があるということだ。「マクロでは違いがわからないが、ミクロを見ると違う」。

これはつまり、「微細かつ重要な差異をとらえないと、よりよい医療をほどこせないことがある」ということを意味する。だから病理診断は重要視される。だから病理診断は頼られる。

大きな違いならば臨床医がすでに診察とか血液検査とか画像検査などで見出しているから、あえて病理診断で付け加える必要もない。

しかし、小さな小さな差異には病理医が細胞をもとに気づかなければいけない。

ほかにだれも気づけない。

そんな微妙な差を、研修たかだか2年とか5年の人間が、気づけるわけがない。

今のこの文脈をひっくり返す。逆に言う。「タマゴやヒナが見落とす所見」にこそ、病理診断のエッセンスが凝縮している、ということになる。



研修医が気付けない部分、まちがう部分に敏感になり、注意をはらうことは、指導医が病理医として持続的に働いていく上で、とても大切な「ブレス」であり、「スタッカート」のような役割を果たす。

抽象的で申し訳ないが、指導医は、自分だけが細胞を見て、自分の磨いた技術だけで病理診断をし続けるよりも、「自分でない誰かが細胞を見たときの感想と自分の中での印象とを見比べる」ほうが、より精度の高い診断を長くし続けることができる。

研修医や専攻医がまじめに働いて熱意を注いだ報告書は臨床の役には立たない。しかし、病理医の役に立つのだ。

本当にありがたいことである。

でもまああんまりいっぱい下書きされても添削するのが大変なので、あまり脳を使わない仕事の手伝いもしてもらいたいといつも思う。けれども病理検査室に脳を使わない仕事というのは存在しないのである。手紙書きだって写真撮影だって「細かな差異」に気づけなければ価値は生まれない。あなたがたは私たちの負担であり教師でありモチベーションであり宝物なのです。「お役に立ててますか?」「今めちゃくちゃ立ってるよ!(報告書に赤ペンを走らせながら)」