暗算祈願

豊島ミホのポッドキャスト「聖なる欲望ラジオ」がひさびさに更新されたのでホクホクと聞く。そういえば私もポッドキャストやっていたんだったな……と過去形で思い出すくらいにして。

私のポッドキャスト「ココロノ本ノ」は、本についての期待の回想を毎週火曜日の朝に更新する、という気持ちではじめた。しかし13回だか14回だかやったところで、収録する時間をうまく日常にねじこむことができずになんとなくペンディングになっている。申し訳ない。スマホで収録できていたらもう少し続けられたかなあ。豊島ミホはちゃんと更新してくれるから本当に偉大だ。

番組内で、豊島ミホがポッドキャストのことを「ポッキャ」と略していて、なんというか、感動してしまった。ポッキャ! これは流行る! というか、なぜいままでこの略し方を自分で思いつかなかったのだろう。こういうところにワードセンスというものが出る。

いや、ま、私が知らないだけで、ポッドキャスト界隈ではとっくに言われていた言葉だということも十分にありえる。それにしてもだ。

ワードセンスというものは、自分の心の中から何が出てくるかという意味だけで推し量るものではない。自分の耳が何をいいと感じてストックしたかという意味でも検証すべきステータスである。ポッドキャストをポッキャと略する、こんな簡単なことについて、私が未経験だったとはあまり思えない。きっとどこかのタイミングで耳の端に引っ掛けていたはずだ。でも、私のワードセンスは残念ながら、そのときその瞬間にその言葉を収集することができなかった。豊島ミホとの圧倒的な実力差が浮き彫りになった。



豊島ミホは「そろばん」について話している。それを聴きながら、ああ、と思うところがあった。

豊島ミホは小学生のころ、学校の授業でそろばんをやったのだが、玉をはじいて指で計算するのではなく、ふつうに計算を暗算して、その結果にあわせて玉の数をそろえるようなやりかたしかできなかった。その結果、10級には受かったのだけれど9級には落ちた。そもそも、そろばんをするということ、そろばんができるということが、果たして人生でどのような意味を持つのか、何かいいことがあるのか、つい最近までわからなかった、とのこと。

ここから話はさらに展開するので、興味のある人はポッドキャスト「聖なる欲望ラジオ」の第50回を聴いてみるとよい。

で、私が考えたのは少しべつのことだ。

脳というのは思った以上にいろんなやり方で目的を達成する。たとえていうならドラえもん1巻1話のセワシくんの説明。東京から大阪に旅行するとして、新幹線、車、飛行機、いろんなルートがありえるが、どれを選んだとしても最終的には大阪にたどり着ける。私は、脳が何かを考えて実行する際にも、おなじことが起こっているのではないかと考える。

たとえば13+29=42という暗算をするとき、頭のなかで筆算をする(想像の中に紙と鉛筆を登場させる)人もいるだろうし、先に29に1を足してからあらためて12を足すみたいな工夫をする人もいるだろう。いろいろなやりかたがある。そして「そろばん」というのはじつは、これらの脳内計算をブーストさせるもの(※新幹線で大阪に行くとして列車にターボをつけるということ)ではないのではなかろうか。普通の暗算が新幹線だとしたら、そろばんは飛行機とか自動車とか、もしくはリニアとか、とにかく路線がまったく違う別の交通手段として導入されるものではないかと思った。

豊島ミホもわたしも、そろばんに対して思い入れはなく、頭の中で暗算をする「手助け」としてしかそろばんのことを考えていなかった。けれど、たぶんそうじゃないのだ。そろばんに小さいころから慣れ親しんでいる人は、脳で暗算をするのとは全くべつのやり方で、指のはじき具合というか、「触覚」で計算をするみたいなことをやっているようである。脳で暗算をしておいてそれと玉を合わせようとするのではなく、私たちが脳をぱちぱち発火させるのとは違うルート、違うシナプスを介して、指とか音とかリズムとかでぱちぱち計算をするのだ。

この別ルートは、小さいころから、「意義」とか「理路」とはべつの次元で、獣道を舗装するかのようにシナプス間の接続をよくしておかないと開通しないように思う。


さて、私は日常で暮らしているときに「暗算」なんてものはめったにしなくなっている。しかし、きっと、子どもの頃から計算を脳内でパチパチやっていたルートを別のことに援用しているような気がする。

かつては貨物列車で缶詰を運んでいたけれど今はそのスペースを用いてアクリルスタンドを運んでいる、みたいな感じだ。

使い尽くしたルートにおけるシナプスの接続の良さを、きっと別のことに再利用しているように思う。それは暗算とはぜんぜん違うジャンルの思考で、自分でもまさかそのルートを使っているなんてことは自覚的できていないのではないか。たとえばダジャレを考えるときに脳に熱が鬱滞したあとで一気に放熱するようなあの感覚は、どことなくかつての公文式の暗算に近いものを感じる。私はもしかすると、暗算をしなくなったかわりにそのルートをダジャレに流用しているのではなかろうか?

そして、たぶんおそらく、「そろばん」を小さいころにやっていた人もまた、今はそろばんなんて全く触れていないとしても、そのルートをなんらかの別の情報処理に援用しているのではないか。

だったらそろばんをやっておけばよかった、とかそういうことを言いたいわけではない。

私たちが育っていく過程で脳が舗装したたくさんのルートは、きっと我々の思考や行動の個性のベースになっている。子どものころに何をしたからいいとか悪いとかではなしに、シンプルに、私たちのお互いの「違い」になっているのではないか、みたいなことをぼんやりと思った。暗算をするようなイメージでそう思った。