自分の中に深く潜る、というところまではいい。
しかし、潜った先に「何か具体的なものがある」と表現しているところが違う。
脳の奥底に、「手でつかめるような実体」があると感じることはない。脳の底までたどり着いてもそこは混沌であって「答え」が置いてある場所ではない。底に立って周りを見渡し、あるいは見上げ、うなだれ、乱雑に広がるほこりっぽい蜘蛛の巣のようなイトの数々を揺らしたりまとめて追い払ったりしているうち、なにやら思考がモヤモヤ出てくるが、それは「底にあったもの」ではない。
何かが自分の底に秘匿されており、それをむき出しにするためにものを書く、といった表現には違和感がある。それは、書くという行為を要約しすぎていると思う。
そして、潜る先が自分の奥底である必要もないと思う。たとえば誰かの心の中でもいい。他人には秘匿領域があり、当然のことながら私が気軽に潜り込めるものではないし、浅層ですら跳ね返されてしまう。しかしその「誰かの心に入り込めるとしたら」という想像の世界で、何度も繰り返し拒絶される体験そのものは、なんらかのかたちで文章になる。このときもやはり、誰かの心の底に隠されたものを開示するわけではないし、そもそも、心の底に隠されたものが何か具体的に宝物のようにあるという考え方に、私はいまいち共感できないのだ。
究極的には、潜る先は人の心でなくてもいい。科学の中でもかまわないと思う。学問体系は自律的に代謝して増殖し子孫を残す生命のようなもので、適応したり変成したりする。ということは、学問という複雑系にも心の奥底のような場所はあって、そこに向かって潜り進んでいくことで、私はおそらく何かを書くことができる。しつこいようだがその際も、学問の奥底になにか「本質」があるだろうと探すわけではない。たぶんそんなものはないし、潜った程度でいいものが見つかるイメージはない。
「奥底に本質がある」という発想から自由にならないと書けない。
書く行為は自分をさらけ出すもの、という言い方を好む人もいる。でも「さらけ出す」という言葉の使い方はミスリードではなかろうか。隠してあるもの、埋もれているものを明らかにするというイメージ、これはじつは書く行為のほんのわずかでしかなく、ほんとうは、書いたものが自分や他人や学問などと絡み合ってそれらを少しずつ異なるものに変化させていくほうが大きくて、それが書くという行為の本態ではないか。
見えなかったものを見せるために執筆するというのではなく、世界をこれまでと異なる方向にずらす運動量としての執筆のほうが、私はわくわくする。前者はなんというか、お里が知れるというか。
潜った先にあるものに光を当てただけで執筆が成立するならば、書くという行為にこれだけの魅力は生じないように思う。
明らかにしがち、つまびらかにしがち、解きほぐしがち、そんな中、そういうことから距離を取って、にじり寄るかのように、後ずさるように、何かに質量を乗っけて動かしていくような執筆物に、私はあこがれるし、そういうものを読んでいるときに一番、心の奥底にいるときのあの、不安で不安定だが不思議と不快ではない気持ちにひたることができる。