考えすぎだよと言われているうちが花かもしれないよ

「このような症例は大学でも見ることがないんですよ」と専攻医が言った。それはむしろ「大学だからこそ見ない」のだろうと思ったが、まあ、特に指摘はしないでおいた。

私たちはいつも不完全であり、伝達・コミュニケーションの手段である言葉になにかをすべて含ませることはできないし、意図なんてものは張り巡らされるにしても穴だらけ・隙だらけであって、不如意と無意識が真実を映し出すなんてこともないし、要は、あまり深く勘ぐってもてんで的外れ、なんてこともいっぱいあるのである。全部に意味なんてないのだ。


相手がそれほど日本語の細かいニュアンスに気を配らずに発言している瞬間に、敏感であったほうがいい。

単なる唇の閉じ開きのクセ。舌のまわり方のクセ。

私たちはそこまで言葉を大事にして暮らしているわけではないということ。

「そこまで深い意味はない」という、かなりありふれた展開に、慣れておいたほうがいいということ。




先日、ポッドキャスト「感情言語化研究所」において、作詞家・シンガーソングライターの畑亜貴さんが、リスナーからの投稿の「言葉は常にずれ、コミュニケーションはいつも失敗すると思ったほうがよいだろうか」というお悩み(?)に対して、

「そこで音楽ですよ」

と発言したのでぶっとんでしまった。

なるほど。

エクリチュールとパロールみたいな方向のことばかり考えていたけれど、言葉がすれ違うところで何かを伝えたり含んだりできるのは音楽なのか。これはちょっと殴られたというか私にその発想はなかった。しかし納得してしまう。

「そこで芸術ですよ」とまで換言できるか? とちょっと考えたけれど、芸術と音楽とは必ずしもベン図ががっちり重なるものではない気もする。絶対音感やピアノ演奏術などがなくても、あらゆる人に「楽しむ程度であれば」手の届く距離にあるのが音楽だ。解釈する知識がなくてもなにか情景だけが伝わってくるということがありうるのが音楽だ。

音楽を用いて言葉を超えるほどの何かを伝えるというのは、私にはとうていできそうにないのだけれど、しかし、音楽的なものごとを介してなぜか伝わってしまう経験はこれまでにも確かに何度かあった。



あるいは駅舎のにおいを嗅いだときに四十年前の母の故郷の風景を思い出すときのことなどを断絶した連想の先に思う。



言葉は後景にさがり、しかし何かが伝わってくるときの感覚。言葉尻にあれこれ目くじらを立てるようなことをせずとも、五感がどこかからか引き出してくる印象に向き合っていればそれで人間なんてのは十分やりとりができるのではなかろうかと、ちょっと希望的すぎる観測をしてみたりする。「私たちの思考は言葉によってなされている」といくら理論的に話されたところで、「は? 私の国語力はこんなに複雑な思考ができるほど鋭くないのだが笑」とニヒルに謙遜してみたくなることもあったりする。