本を読んで感想を書いてくれる、あるいは感想を書くでもなくただ「〇〇(書名)読んだ、おもしろかった」みたいにつぶやいてくれるアカウントをフォローしている。自分も読んだはずなのだがあらすじを覚えていないような本を、そういう人がじっくりと読んで細やかに反響させているとき、あこがれるし、とても感謝する。あるいは、ある本について読了報告以外特に何も語らなかったけれども、その後の数日とか数週間にわたってなんとなく本の情動に影響されたかのようにふるまう人というのもいる。そういう人たちをみるとじんわりと心が喜び、ちょっとうきうきとする。
「成瀬は天下を取りにいく」を読んでからしばらくの間、口調と姿勢がまっすぐになった人を見ているというのが、ほのぼのうれしい。人生の幸せである。
一方の私である。なんとなく最近の読書は「ガチャを引いて出てきた景品を一瞥してあとは本棚の天板の裏に貼り付けて忘れてしまう感じ」に近いと思う。読み捨てている、あるいは、一瞬だけ触れ合って通り過ぎている。それがとりわけ「悪いこと」とは思わないし、「もったいない」とも感じないのだが、「でも別様になれるものならなってみたい」というふんわりとした欲を自覚する。
自分が普段あまり使い慣れていない言葉を本の中に見つけてかっこいいと感じ、その言葉を自然に使うにはどういう文章を書いたらいいのかと考えて、まるで「たった一つの宝石を輝かせるために美術館自体を建築する」みたいなやりかたで書いたブログ記事、というのを昔はよくこさえていた。
今はあまりやっていない。けれどもそこまで言葉に感化される暮らしのほうがきっと楽しいだろうと思う。
「オタクは哲学用語が大好きだからすぐ止揚とか差延とか言う」みたいな話でもあるから気をつけておいたほうがいいけれど。
凝り固まった自分の表面で跳ね返っていく外界の刺激が、内側の芯の部分にあるなにかを一切揺らすことがない日々というのは、味気ない。
もっとも、私の本質が内側にひそんでいるとも私自身はあまり思っていない。何かをしっかりと守っている外骨格にこそ私の多くが散りばめられているような気もする。中に響けばいいというものでもないのだ。たとえば、『ダンジョン飯』に出てきた「動く鎧」、あれこそが、思考や人格のこれ以上ない比喩ではなかろうか。
つまりは何かしらの言葉が外からやってきたときに、それをまともに受け止めたり、つるりと受け流したりする自分の最表面のテクスチャ、それが自分というものであり、さらにはそこについた汚れ、垢、傷、そういったものに気配りをすることが自分の本質であるように思うのである。そういった一連の「表面行動」を近ごろの私はすこしおざなりにしている。もう少し、降り掛かってくる火の粉によって寝癖の部分がチリチリと燃えて騒ぐ、くらいの暮らしに戻ってもいいのかもしれない。
読み返してみると今日の一連の話は「速読ではなく精読をしろ」という表明にも見える。でも、そういうことともちょっと違うのだ。読書自体はべつに自由でいい、そして、「読書の後の時間」も好き勝手にしていればいい、けれどもそこにあとちょっとだけ手を加えることで、私はもう少しだけ私自身が好きな私になれるのではないかという、これはつまり、我欲の話である。