ヤとカだけで大違い

『カンデル神経科学』でおなじみエリック・R・カンデルの近著、『脳科学で解く心の病』は、カンデル神経科学の一般向け要約版のような内容で、あまり読み物という感じではなく期待からは少しはずれたがなかなかおもしろかった。

近年の脳科学は「無意識」の重要性や、心に先行して身体の反応がまず生じる(意図してから体が動くのではない)ことなどを次々と明らかにしており、我々の行動は思った以上に「ままならない部分」に制御されていることが、カンデルの本を読むとよくわかる。

脳は猛烈なネットワークで、どれだけ医学が進んでもそう簡単には「解明」できない。しかしだからといってずっとブラックボックスの中に入れておこうなんて誰も思わない魅力ある臓器だ。社会という複雑系を私たちがさまざまな手段で理解しようとするように(あるいはときに間違えて理解してしまうように)、昔も今も脳は研究の対象であり、けっこうな熱量で微に入り細を穿つ解析が進められている。

一部の超優秀な人に話を持っていかずとも、たとえば私(ごとき)が脳神経にかかわる病気の解剖をするときのことを思い浮かべても、やはり脳というのはほかとはちょっと違うなあと感じる。

たくさんの臓器を「切り出し」して、ここぞという場所をプレパラートにして、顕微鏡で観察するという病理のプロセスにおいて、胃、大腸、肝臓、膵臓、肺、腎臓など全身の臓器をくまなく検索して作るプレパラートの枚数は、ご遺体おひとりあたり平均してだいたい40~50枚前後といったところだ。ところが、脳というたった1個の臓器を検索するために、なんと50枚くらいプレパラートを作らなければいけない。全身のあらゆる臓器をくまなく検索するのと脳を解析するのとがほぼ同じ手間なのである。ちなみに「最低でも50枚」であって、ここから特殊染色や免疫染色などを駆使すると検討するプレパラートの枚数は簡単に100枚を越える。プレパラート1枚を1分で見たとしたって100分。ちなみに私は胃腸や肝臓などのプレパラートなら1枚1分くらいで見られるけれど、脳だと軽く5分くらいかかる。難しいからだ。100枚見たら500分。考えることを含まない500分。見るだけで6時間20分。そこからさらに考える必要がある。ああ、脳は別格だ。

「えっ、私は病理医だけどそんな枚数作ったことないですよ」という人は、おそらく脳出血とか脳梗塞とか脳腫瘍などの「そんなにプレパラートをいっぱい作らなくても解析ができる病気」の解剖しかしたことがない。無理もない。そういう人が経験不足なのではない。私も含めた中年より若い病理医は、いまや全員が経験不足だ。私たちの仕事は専門性に分かれ過ぎてしまった。お互いの仕事を見て、「なんだそんなことも知らないのか」と全員に向かって言えるし、全員から言われる立場である。全身の臓器を相手にするといわれている病理医ですらそうだ。そんな中、めぐりあわせによって、私はたまたま脳をいっぱいプレパラートにしたことが数回あったというだけだ。ただそれだけのことなのだ。

昔の病理医のように何百例も脳ばかり見るということを、現代の病理医でやったことがある人はおそらく1000人に1人くらいしかいないだろう(でも全くいないわけではない)。私もおそらく見たことのある脳の数は100に満たない。

ついでにいうが、私たちはそもそも解剖をぜんぜんしていない世代である。かつて、病理医の仕事の半分くらいが解剖だったころ、ベテラン病理医の生涯解剖数は3000とも4000とも言われた。これに対し、仮にも20年医師をやっていて主任部長やら委員やら客員准教授やらを歴任している、つまりはそれなりに病理医社会に認められているはずの私の生涯解剖数はたった300とか400とかそんなものだ。ケタが違う。私たちの世代が解剖をうんぬんいうことはおこがましいし恥ずかしい。けれどもなにか言わなければいけない。だって私たちはもう中年なのだから。自分の経験だけでは何も語れない、そんなことはわかった上で、たくさんの勉強をして他人の経験を集めて元気玉みたいにして、何かを書いたりしゃべったりする。偉そうにしゃべっていても背中は冷や汗でびっちょり、というのが現代の病理医のデフォルトだ。リアルな経験は本当に尊いし、いかに言いつたえをリアルに再現して足りない経験を補っていくかが、専門性で尖りに尖った現代の医学の刃を効果的にふるうための技術と心構えなのである。

話がずれた、もとにもどそう。

脳神経病理は「異形」である。ほかの臓器と比べて、検索の手間があきらかに深く複雑であり、どれだけ解析してもしすぎるということはない。世間的には不要論がささやかれている病理解剖の重要性も脳に関しては全くおとろえない(だってそう簡単に手術で取れないからね)。臨床の解像度は全く病理組織のそれに追いついていなくて、解明されている幅が狭すぎて情報もぜんぜん足りてなくて、解剖技術であっても隅々を照らしきっていない。そんな脳がひとりひとりの頭蓋骨の中にもれなくプレゼントされているという現状、いったいどういうことなのだろう、生命というのはふしぎすぎて頭がくらくらしてくる(脳が重いのでは?)。



カンデルの本を読んでいると、扁桃体がどうとか視床下部がどうとか海馬がどうとかといった、たまにテレビのバラエティでも出てくるような「脳の地名」がたくさん出てくる。しかしこれらは単独でなにか仕事をするのではなく、それぞれの場所にあるニューロンが、脳のほかの場所にあるニューロンたちと相互にやりとりをしまくる。そのことをカンデルはあまり省略しないで書くので、読んでいると曼荼羅の中に放り出されたように頭の中がハテナでいっぱいになる。

横山光輝「三国志」を読むと、後漢時代の中国では劉備と関羽と張飛と趙雲あたりが諸葛亮にいいようにこきつかわれながら中国をどんどん変えていったような錯覚におちいる。しかし実際には曹操も袁紹も劉表も孫権も、霊帝だって黄巾賊だって五斗米道だって南蛮だって好き勝手に動き回って同盟を組んだり破棄したり攻め滅ぼしたり降ったりを繰り返していた。趙雲が公孫瓚の下をはなれたから袁紹が公孫瓚を倒したとか言い切れない。関羽が顔良と文醜を切ったから曹操が袁紹を倒して中原北部において覇権を握ったとか言い切れない。それが歴史だ。単一ファクターで語れるものではない。脳もそれといっしょだ。fMRIでどこかが光ってたから脳のその部分が活躍しているのだなと「までは言えない」のが脳のむずかしいところである。そのへんをカンデルはなるべくわかりやすく書こうとして思いっきり難しく書いている。いや、わかりやすく書いてもこれが限界だろうな。カンデルはすごいよ。ヤンデルが言うんだから間違いない。

私の出身講座はもともと「脳科学専攻」であったが、私自身は脳の研究をしたことがない。大学院時代に重要な脳解剖を担当したこともない(希少症例は専門家によって執刀されていた)。そして今勤めている病院には脳神経外科がない(脳神経内科はある)。つまり脳について語る資格はほとんどない。おこがましいしちゃんちゃらおかしい。事実、仕事で脳についての検討が必要なときには大学の偉い人に相談をしながらヒイヒイ進めている。そんな私でも、やっぱり脳についてはときどき「ああ、語れるくらい詳しくなりたいなあ」という欲が出てくる。欲が出てくるのは脳のどこからだったかな? ああ、そうか、1箇所じゃないんだっけか……。