ネックファンをもらったのでたまに職場で使っている。私のデスク周りは窓からの輻射熱やフルオート顕微鏡からの放熱で検査室のほかの場所よりも常時2度くらい高く、わりと近いところに座っている先輩が盛大にサーキュレーターを回して部屋の冷房をかきまわしていても私のデスクだけはそんなに効果がないのだ。ネックファンごときがどれだけ役に立つものか、首にかけるタイプなので肩こりしないかとちょっと心配していたけれどまあいただきものだし使ってみるかと思ってスイッチを入れる。首元はワイシャツなので直で風があたらないのだが耳下腺のあたりにぬるい風がずっとぶちあたっていてそんなに不快ではない。まあこんなものかと思いつつ30分くらい働き、そろそろいいかなと思ってスイッチを切るととたんに頭の熱があがってくるので驚いた。効いていたのだ。頸部への風ひとつでここまで私の熱を逃がしてくれていたのかとびっくりである。すぐれものではないか。ふたたびスイッチをつける。私の仕事環境にはこうしてずっとブーンという音が響き渡るようになった。プチ騒音にスタッフが眉をひそめていないことを祈る。
似たようなことは人生の中に何度も起こっている。ユニクロのクールテック的な下着を一度試すともう前には戻れない。iPadなんてなくてもPCがあれば十分とか言っていたころが嘘のようにタブレットは便利だ。ヒットする商品にはそれだけの理由がある。もちろんすべてが自分にマッチするわけではないのだが、あえてマイナー路線をひたはしるよりも売れ筋のものを順番に導入するほうがストレスの上昇度合いは明らかにゆるやかになるのであった。
一方で、ある商品が圧倒的な知名度を手に入れる前からそれを使っていた場合、後から世間がそれを認知して知名度が上がると逆にその商品の価値は下がったように感じる。ふしぎなものだ。Twitterなんてまさにそうであった。2010年の後半、世の中がSNSというものにだいぶ関心を向け始めてはいたものの、まだまだSNS運用おじさんなんてキッチンの三角コーナーくらいの愛着(どちらかというと生理的嫌悪)しか集めていなかったころに私はTwitterをはじめた。先見の明があったなんて言いたいわけじゃない、ヒットする前のTwitterは間違いなく掃き溜めだった。ただ薄汚れた鶴がたくさんいたからタモリ倶楽部やマツコの知らない世界が好きなタイプの人間にとっては居心地がよかった。その後、東日本大震災によって個人の情報発信だとか広報だとかいうものに対して議論が起こり始めたときに私は病理医ヤンデル(1期)をスタートさせた。こんなにいいものはない、こんなに役に立つものはない、こんなにくだらなくてこんなにどうでもよくてこんなにほっとするものはないなあと私は長年Twitterを絶賛しながら運用した。しかしそのうちSNSに対して公的な学会や研究所などが本腰を入れて人員を配置するようになり、「誰もが使うヒット商品」みたいになってくると私はだんだんTwitterが使いづらくなった。Twitterのほうもそれは十分感じていたようであるとき急にTwitterをほっぽりだしてXと名を変えてしまった。そのとき真っ先に思ったのは、イーロン死ねとか青い鳥を返せとかではなくてぶっちゃけ「わかる……」という共感というか同情であった。これには自分でも驚いた。おりしもストーカー被害が激化してうんざりしてしまったこともあって、私はネットでの連載をすべて終了させ(はじまったばかりの企画もあったので本当に申し訳なかった)、病理医ヤンデルを店じまいして2日後にひそかに次のアカウントをはじめて、各学会のSNS運用をちょろちょろ手伝いながらこのまま鍵運用で隠遁しようと心に決めた。しかし残念ながら、結果として隠遁はかなわかった。理由はじつにくだらなくて私のかつてのアカウントIDを取得したバカ野郎が私のアカウントを保持する英雄を気取ってBio欄で私向けにメッセージを書いたのである。なんでそういう無粋で余計なことをするのかと頭を抱えたし、なりすましや便乗によって誰かに迷惑がかかるのであれば私の所在をネット上でもう少しはっきりさせておいたほうがよいと思って、隠遁アカウントのIDを「@Dr_yandeta」に変えて2期を再始動させたのである。ネット上で連載などの仕事を受けることはもうないと思うし医学情報なども積極的に出すつもりはないのだが、途中で放りだしたSNS医療のカタチのことだけは今でも応援したい気持ちもあり、結局前と同じような発信をしてしまっていることはある。
今の話は、「ヒットする商品にはみんなが認める価値があり、それを素直に受け入れることで人生がちょっと楽になる」という理屈とは完全にバッティングする。ヒットするくらいに広く受け入れられる価値を持ってしまったが最後、それをあえて使う意味がふきとんでしまうということが確かにあった。よくある逆張りの精神とか中二病じゃねーかと思われるかもしれないがそういう部分もおそらくあるだろう。逆にいうと私は今こうしてネックファンをぶんぶん鳴らすほど世間に迎合できるほどには十分に可塑性を有するくたびれたおじさんになっているにもかかわらず、いまだにXが社会に認知されたのされないの話を根に持っているコドナ(子どもっぽい大人)なのである。