あや

どういう光のあやなのかはわからなかったが今朝は強烈な光の中で目が覚めた。なにかを人工的に照射されているのではないかと思って深い眠りの奥から急速に浮上した。あまりにいそいで覚醒したので前頭葉が重い。なんだなんだどうして明るいんだと思ってあたりを見回すと、窓から注ぎ込んだ朝日が壁に反射してそこが白く光っていて私の寝ていた枕の位置にさらにその反射光が降り注いでいるだけだった。べつにとりわけこの季節だけ明るさが増すというわけでもないのに不思議なことだった。どういう光学的あやなのかはわからなかったが今朝に限っては私のまぶたの上に幾度かの反射を経て直接陽光が降り立っていた。

数日前からシャワーを浴びると左手の人差し指の腹だけシワシワになる。湯船に長く浸かることがなくなった昨今、指がシワシワになるという現象そのものを久々にみた。上田剛士先生が和文雑誌のコラムに「おふろに入ったら指がシワシワになるのは、水分で指がふやけているのではなくて、自律神経のはたらきによって血管を閉じて熱の過剰な移動をふせぐ過程で真皮内の水分量が減るからだ」と書いているのを読んだ記憶がある。あれはふやけているのではなくてむしろ水が減っていたのだ。たしかに干し柿だって漬物だって水が抜けるごとにシワシワになる。ふやけたらパンパンに膨れるのが道理だ。というわけで私の左手の人差し指だけがいま水分を失っているのだけれど意味がわからない。シャワーを浴びているだけなのだから。首の角度と関係があるのか? あるいは神経が不調なのかもしれない。10年弱わずらっている頸椎症は良くなったり悪くなったりしていて、左手の人差し指付近のしびれも一進一退といったところで、感覚神経だけではなく自律神経系もいかれてしまったのかもしれない。そんなことがありうるのだろうか。たまたま何かのあやでシワシワになってみた、くらいのゆるい変化なのかもしれないので放っておくことにする。ホルマリンを扱うときに手袋がそこだけやぶれていたから、とかいう全く別の理由もあるかもしれないのだ。シャワーを浴びたときだけというのがどうもよくわからないのだが。

すべては科学で説明がつくのだが人間が科学の入り組んだ理路をすべてトレースすることができないためにあたかも科学で説明がつかないように感じてしまう現象というのが世の中には無数に存在する。これを科学では説明がつかないと表現することが間違いだとは思わないし有用な短絡だと感じる。京極堂もしょっちゅう言っているであろう、「この世には不思議なことなど何もないのだよ、関口君」。ただしこのセリフにおいて忘れてはいけないのは、京極堂がこれをいう相手が神経症の関口君ばかりだということで、京極堂自身はこのセリフをセラピーというかケアの一環として用いている可能性があるので本意はまた別のところにあるのかもしれない。――りん。風鈴が鳴った。風鈴というのはなかなか凝った装置であるとともになぜかはわからないが日本人共通の「美しいと感じる比率」的な構造をしていると前々から思っていた。そのあたりを歩いている人たちを集めて風を受け止める部分の「紙」の長さを何も見ずにスケッチしてもらうと、特にこうやって書けと指定したわけでもないのにほとんどの人が16:3くらいの縦横比の縦長の紙を書くのだ。実際に店で風鈴を見るとほかにもたくさんのバリエーションがあるのになぜかみんな16:3くらいの縦長の紙を書くのである。今の話はぜんぶうそなのだがどこまで信じてもらえたろうか。どういう感性のあやかはわからないが今のデタラメを人前で話すと9割5分くらいの人は「実際に店で風鈴を見ると……」のくだりで「えっ今のってほんと?」と懐疑のリアクションをする。まあほんとっていうか嘘なんだけどねと答えるとなんでそんな意味のない嘘をつくのと怒られる。どういう脳のあやかはわからないのだが私はそういう話がべらぼうに好きなのだ。