要はパンツをはくからチンポジが発生するということです

読んでからずっと考えているnoteというのがある。これである。

https://note.com/d_yosoji_man/n/nbcf9286700b1

長いので、ブックマークでもしておいてあとで読んでみてほしい(別に読まなくてもいい)。ここに何が書いてあるかを繰り返す気はないので、読んだ内容から思いついたことを書く。

「伝わりやすいフォーマット」のせいで、私たちが観測できるものごとが狭まっているという、当たり前のことにまだまだ自分は無自覚だったなあ。


Xでは「親が宗教にはまっていて」というポストよりも「毒親が宗教にはまっていて」というポストのほうが広まりやすい。それは毒親という言葉がいわゆるバズワードだからだ。雑に言えばそういうこと。しかしこの雑なとらえかたすらせずに、SNSが社会を映していると思ってはいけないし、かくいう私は「SNSが社会を反映しているなんて思ってないよ」とか言いつつ、じつのところ、わりと社会を見ている気になっていた。

のぞき窓は狭くてもがんばって身を乗り出せばだいぶ広い範囲が見えるはずだ……というのは視力に対する過大評価だ。そもそも、見渡すのに必要なのは視力だけはなく視野角である。人間はどれだけがんばってもせいぜい前方160度しか見ることができない。世界一目のいい人であっても後方は見えない。さらにいえば光は音ほどには回折しないからついたてが1個あるだけで向こうは見えない。地球は丸いので視力が100.5くらいあっても地平線の向こうはわからない。つまり窓があってもなくても私たちは全貌を見ることができない。おまけに窓枠は超狭い。そして窓から見えるのはいわゆる「映え」に偏っている。なぜなら窓というのは景色が一番いいところに付けるものだからだ。「窓がそこに開く条件」自体もまた、我々の見ているものを狭く小さく、決まった額縁の中にしぼりこんでいる。

同じようなことはnoteでも書籍でも起こっている。世の問題を切り取って開示するとき、「広まりやすい言葉や物語構造」を持っているかどうかによって拡散のされ方が異なるため、私が目にする情報の多くは「広まりやすいものばかり」になるということだ。今の私がSNSやらテレビやら本やらを見て、「なるほど、今世間ではこういう問題があるのか」と感じることは、遠くまで届きやすいフォーマットに整形された問題ばかりである。執筆の技術や語り口の印象操作だけの問題ではない。「そもそも取材されやすいか」とか、「取材した人が問題だと認識しやすいか」とか、「そこに起こっていることを既存のフォーマットに近似して解釈しやすいか」とか、「記事を作成している途中でオワコンにならないか」といった、たくさんのバイアスに、取材者も読者もさいしょからかなり引きずられている。そういうバイアスから距離をとるべき学者たちもやっぱり構造に引きずられている。

先のnoteの途中になにげなく書かれていた、「男親が宗教にはまって息子が苦労するタイプのコミックエッセイってぜんぜんないなあ」という、トミヤマユキコさんの指摘にうぐっとなる。それはそうだろう、宗教にはまるのは母親が圧倒的に多い……と、宗教2世問題やジェンダー問題をぐちゃぐちゃに練った感想を持ってしまいたくなるが、もちろんこれも偏っている。そこには複数の「因果の矢印」がある。どれが原因でどれが結果かもはやわかりづらくなっている。語りやすいテンプレからはずれた構図が語られていない。語りやすいテンプレに自分の体験や感想を「寄せて」いった書き手がたくさんいる。そもそも人の体験とそれに関する自覚そのものが世の風潮によって彫琢されている可能性がある。



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まだ進行中なのであまり外では広めないでほしい話。

1年くらい前から、ある医療者に相談をうけていた。マイナージャンルで本を書きたいのだが、どうやって出版社とつながったらいいかわからない、という。要は私のコネで版元とつないでくれ、ということなのだが残念ながら私は別に医学書フィクサーではないので知っている編集者に「こういう医療者がいるんですが……」と相談してあとは一緒に悩むしかなかった。

その方の書きたい内容は、見事に読み手が少ない。同人誌であれば決してオンリーが開催されないであろうレベル。だからこそ一部の狭い専門性を持つ人々にとっては喉から手が出るほどほしい本。しかしつまり商業出版のあてはなかろうということが私にもよくわかった。

そこで私はフォーマットの整形を提案した。バカ正直に普通の書籍として執筆しても、買う人が少なすぎると版元に判断されて企画が通らない。読者層をどう広げる? 

ちなみに最近の医学書には、まえがきにたいていこんなことが書かれている。

「本書は医師向けに書きましたが、内容は日常の医療現場で応用が可能なものであり、看護師、栄養士、臨床検査技師など幅広い職種の方にもお読みいただけます。熱心な学生のみなさんにもぜひ手に取っていただきたいと考えております。」

非常によく見る。AIもすでにテンプレとして学習し終えているに違いない。医師向けの本を看護師が買うならターゲットが10倍くらいに増えるのだから、このような書き方をする著者が増えるのは当然のことだ。ちなみに、たくさん売れて印税を手にしたいとかいう理由ではなくて(それもあるけど)もっと切実である。最初から、「専門医だけを相手にすると200部も売れないから、メディカルスタッフ全部が読めるレベルで書くという条件で企画を通している」のだ。

本来、非常に専門性の狭い人たちしか読まない(ただしそういう人たちはよだれを垂らして読む)であろう本をなぜ書籍にする必要があるのか? インターネットで公開すればよいではないか? みたいな指摘は次の機会に反論する。学術書もまた人と同じように、書籍としての身体を持つことが精神において重要な意味を持つと思っている……のは私だけではあるまい(ちょっと濁した)。

話を戻す。どうやって購入者数を増やすか。ふたつの方法がある。

(1)領域横断的な内容をたくさん盛り込み、知識のレベルも高いものからそうでもないものまで取り混ぜることで、本に含まれる知識の幅をひろくとること。

(2)バズるフォーマットで書く

前者は書籍に含まれる知そのもの。後者は書籍の構造についてである。私は今回、(2)にテコ入れすることを提案した。近頃の医学書の中でわりと人気のある形式をまねして作れば企画会議が通りやすいのではないかと思って、ためしにその医療者がこれまでにやってきたことをもとに、私が仮原稿を作ってみせたのである。

編集者は「これなら企画が通りますよ」と喜んだ。しかし、くだんの医療者は、途中まではなるほどなるほどとメールを読んでいたのだろうが、企画書が提出される直前になって、

「いまどきは……ここまでレベルを下げないと医学書というのは売れないのでしょうか?」

とおずおず質問してきた。


レベルうんぬんは(1)で考えるべきことだ。私が提案したのは(2)、書籍全体をどう見せるかという構造に関する話である。私が用意したのはあくまで見本原稿であり、実際に書籍をつくるにあたってはもっとレベルを高くすればいいんですよと応答した。すると次にその方はこう返事をした。

「この形式がどうしても気になります……。」

その方がほんとうに気にしていたのは、私がテコ入れを提案した(2)構造にかんすることであった。思い描いていた医学書と異なるスタイルだったのだろう。


私は今、売れるフォーマットに医学知識を収めて本をつくるということをやろうとしていたのか。

医学書があまり売れないといわれる世の中で、たくさんの人がとりあえず手にとるようなフォーマットを探すことに熱心であるあまり、著者のアウトプット意欲を削いでしまっていたのか。

そうやって出てくる医学書を読んだ医療者が手に入れる知識は、「そのフォーマットの域をこえないもの」になってしまうのではないか。


私は見本原稿を撤回してその医療者に謝罪した。

私は、「バズるフォーマット」を探してのっかることを無意識にやるタイプの人間となっていた。

その私から出るものは常に偏っている。社会が偏って見えるのと同じように。

私も偏って見られている。

そして、それは、はたして、私が「偏って見える」というのは、「私が本当に偏っている」ことと、いったいどう違うのか。

何も違わないのではないか。