酒を脱いでも洒脱にはならない

軽薄さと軽妙さは似ているが違う。その差分に興味がある。脊髄反射でぺろっと軽いリアクションをしているように見えても、言葉の選び方や捨て方(何を言うか・言わないか)の判断がいちいちニクイ人というのがいる。そういう人は、一見軽薄そうなのだがじつは軽妙なのだ。長い思索の先端を丁寧に切り離して放たれた言葉は、軽く聞き流したつもりでいても何年も心にひっかかる。

毎日大量の短文をnoteや課金Xに書きつけて小銭をかせぐタイプの人間が増えた。「当意即妙」という言葉の、意と妙の部分が相対的に軽視され、当と即の側面が強調される。赤地に白字の「速報」アイコンを重宝する報道のまねごと。私たちは今後、軽薄に甘んじることなく軽妙に寄せていけるか。言うほどかんたんなことではない。

軽くて扱いやすいんだけどいつまでも手になじむような言葉というのがあるだろう。安い爪切りなんだけど10年以上旅行カバンに入っている、とか、出先のコンビニでとりあえず買っただけなのだが妙に履きやすくてローテ入りした靴下、みたいに。聞く人、見る人に、「ああなるほど、それはわかるし誠実だし使いやすいし取っておきやすいねえ」と、気楽に携帯してもらえるような言葉。新製品すぎてもなじまない。使い古しは長持ちしない。知らない人たちによる口コミが良ければ使い勝手がいいというわけでもない。愛着がわくかどうかはサイコロ勝負に近い。

「軽妙なふるまい」のキモがどこにあるか。

なんとなくだけど「利得の発生する場所」がポイントなのではないか。

今ここに、語り手と受け手、ふたりがいたとする。語り手ばかりが得をするように感じられる言葉を、私たちは「あざとい」と感じて遠ざける。では受け手が得をするような言葉であればよいのか。そうではない。語り手が一方的に受け手の利得を説くような言葉を私たちは「うさんくさい」と感じてやはり遠ざける。

会話の中で、その場に在籍する人間のどちらかに直接的な利得が発生しそうだと感じるとき、言葉は商材になり、場面依存的になり、解釈の幅が狭くなって持続性が落ちる。

では語り手でも受け手でもない第三の人のことばかり考えた言葉ならばいいのか。そんなものには体温が乗らない。「あざとい」や「うさんくさい」を極力排除したとしてもおそらく「空虚だ」と感じて手放すことになる。

どこかにちょっぴりの得が発生することは重要だ。それは語り手と受け手がどちらも「おもしろいね」と笑うくらいの軽いものでよい。どちらか一方がもっぱら得をする必要はなく、第三者のために献身的であることを見せつけるのでもなく。私もあなたも知らぬ誰かにも、四方八方ちょっとずつ「悪くないね、おもしろいね」となるくらいのバランス。

それが軽妙さのコアにあるのではないか。となるとカギは語り手の能力だけではない。落語にたとえるならば、すばらしい落語家がいれば軽妙洒脱な噺が聞けるかというと必ずしもそういうことではないということだ。すばらしい落語家が、いい演台に座って、おもしろがりに来ている客を相手に何かを語るとき、そこに総体として「軽妙な時間」が流れる、ということなのではないか。落語家のプライベートはむしろ軽薄であってほしい。これは単なるワガママであるが。