ドナドナ通過後の轍の探索

出張の翌日の朝、メールチェックの最中に爪を切ることが多い。理由がありそうだなと思う。土日に移動している間はあまりキータッチをしないので、金曜日から3日ぶりにキーボードに触ることで爪の感触がいつもよりぐっと変わるのだろう。それがきっかけになって爪を切る。でもそれだけではないようにも思う。疲労を引きずった朝、足先もまぶたも指の先端もひとしくむくんでいて、キータッチがいまいちうまくのらないので、せめて爪だけでも万全な状態に……という理屈をつけて仕事から早々に離脱するための爪切り、ということもある。爪が伸びているから爪を切るという順序だけではない。手をキーボードから遠ざけたいから爪を切るという順序も存在するのだ。


行動には複数の理屈がある。その理屈たちはたいていの場合行動に少し遅れてついてくる。サイドカーのように、行動のエンジンの推進力を拝借して横にぴったりと並走するのが理屈であり、サイドカーとは異なり、ひとつのバイクの前後左右上下あたりに登場席がたくさんくっついているのが理屈なのだ。そもそも理屈というのはそこにあるものではなくて私たちが解釈するものである。そしてたとえばなにかの出来事の理屈を解説するにあたって、日本語とフランス語とインドネシア語ではまったく同じ現象をまったく同じ学術で言い表したとしてもニュアンスは異なるのではないか。どれが正しいというわけではなく物事の理屈というものは受け手の状態によってある程度うごめいてしまうものではないか。それらは互いに違うことを言っているように聞こえるときもあるし同時に成立する可能性もあるのではないか。


本質とか理屈とか理由みたいなものを一義的に定めることへの抵抗がある。絵画や音楽みたいなものだ。読み方はひとつではない。だれもが納得する強い理論を有する現象ですらその語り方には幾通りかのバリエーションがありうる。彼岸に存在する「本当のすがた」をそれぞれ違うところに立つ人間が別の角度から見ているという意味ではなく(形態学などをやっているとたまにこの考え方に戻ったほうがコミュニケーションが簡単になるよなと短絡してしまうことはあるのだけれど)、ほんとうに、見た人の数だけ、見えたかたちの数だけ、言い表した言葉の数だけ確固たる理屈が存在するのかもしれないという気が今はしている。


同接280人くらいのYouTube、ライブが終わった後に視聴者数を見たら110人くらいまで減っていた。ふつうはライブ中に出たり入ったりするはずだから終わったところでだいたい1000再生くらいになっているものなのだが今回は減っていた。アクセスしている人間たちがF5更新を繰り返したりしたせいで不審なアクセスと判定されて視聴数がいったんリセットされたのだろう。しかしこの解釈が「正しい」のか「まちがえている」のかはわからないし確定もできない。このレベルの現象であれば「正しい」答えはひとつに決まるものだと思いがちだが実際確定できるものではないのだと私は思う。世の中のたいていのことは「正しさ」を追求しきれないうちにシュンと過ぎ去っていくものなのではないかと強く思っている。放送終了後のアルゴリズムによって同接者数のいくつかを真の視聴者数としてカウントしないという処置が入っていたとして、ではそのアルゴリズムが働くときと働かないときの差はなんなのか、どうしたらもっと再生数が高くなっていたのか、でもこの動画のキモは再生数ではなくて脳内への浸透率の高さのほうだろうとか、とはいえ伝えたかったメッセージは基本的には「正しく」は伝わらないだろうしみんなは牛の出荷のことにしか興味が残っていないだろうな、みたいなことをふわふわと考えていた。