わたしの老害ムーブ

たとえば乳癌の組織標本を見る際、病理医は、癌細胞が微細なリンパ管や静脈に入り込んでいるかどうかを確かめる。癌細胞が数個ずつ、直径たかだか数ミクロンくらいしかないリンパ管とか数十ミクロンくらいしかない静脈の中に入り込んでいるところを見つけて、病理診断報告書に「リンパ管侵襲陽性」とか「静脈侵襲陽性」と記載する。

このリンパ管侵襲とか静脈侵襲といった細かい所見、手間をかけてわざわざ見つけるからには、「患者の予後を鋭く予測できる」と思われがちなのだが、実はそこに巨大なエビデンスは存在しない。

リンパ管侵襲のあるなしが、治療方針にめちゃくちゃ影響するわけではないのだ。

数年後に患者の癌が再発するかどうかを予測できないのだったら、たかだか数ミクロンの所見をがんばって拾いにいく意味はないのではないか。

同じことは胃癌、大腸癌、膵癌、肝内胆管癌などについても言える。

一部の癌においては、リンパ管侵襲や静脈侵襲が「リンパ節転移の個数を予測するのに役立つ」とされている。しかし、根拠となった論文の検索方法が、日頃われわれが行っている検体の検索方法と必ずしも同じとは限らないため、統計の結果をただちにわれわれの臨床にあてはめてよいかどうかは疑問だ。

究極的なことをいうと、リンパ管や静脈の所見を細かくとるよりも、最近はやりのAIかなにかをつかって、病変をトータルで観察したほうが、よっぽど転移・再発のリスクを推測しやすい。

「患者の未来を予測するための因子」としてはリンパ管や静脈というのは決して効率のよいツールではなく、切れ味のよいマーカーでもない。




それでも病理医はこれらの所見をきちんととる。なぜか? そこんところをあまり考えずに「見ろと教わったから」と答えている若い病理医もいるのだけれど、究極的なことを言うと、「見ろと教わったから」でいいのかもしれない。というかこの姿勢のおかげで知らず知らずのうちに病理医は恩恵を受けている。

リンパ管侵襲や静脈侵襲を見逃さないレベルでプレパラートをみることは、病理医のしごとを「丁寧にする」という意味で役に立っている。

リンパ管とか静脈なんて見なくていいよ、どうせ患者には関係ないし、という人間の雑な顕微鏡の見方では、その他の所見もごっそり取りこぼすのだ。Micropapillary patternに気づかないとか、浸潤性乳管癌に浸潤性小葉癌を合併していることを見落とすとか。

リンパ管侵襲や静脈侵襲のような所見を毎日コツコツと探索している病理医にだけ見えてくる風景がある。

これらは病理医の診断のリズムと精密さをととのえるための役に立っている側面がある。



病理医に限らず医療従事者の仕事は年々増えており、むかしの医者よりも今の医者のほうがだいたいにおいて忙しい。おまけに今は働き方改革の名のもとに、もうちょっと深く仕事をしたいと思っても定時だから帰らなければいけない、みたいなことがあちこちで起こっている。

すると、病理医の場合、どうなるかというと、先達たちが「見ておいたほうがいいよ、患者にはあまり関係ないかもしれないけれど」と言っていた細かい所見を若い人がだんだん見逃すようになっていくのである。

その気持ちはよくわかる。今は免疫染色も見なければいけないし遺伝子検査の結果だって考えなければいけない。昔のように、H&E染色のプレパラートだけじっくり見ていれば仕事が終わるということはないのだ。

しかし、病理所見の多くを「今はそれ、エビデンスで見ろと言われていないから省略しますね」とばかりにスルーしていくと、顕微鏡を用いて細胞をじっくり見る力がだんだん削がれていく。結果として、エビデンスが推奨している項目だけならばAIに判断させたほうが優秀だ、みたいな話がボンボン出てきて自分たちの首を絞めることになるのだ。


先達にくらべて少しずつ我々の手技が雑になっていくのはしょうがない。令和には職人が育ちにくいと思う。かわりに平均的な実力を持った人たちが増えて、天才が生まれにくくなり、全国津々浦々で同じような医療が提供できるようになって、ワークライフバランスも保たれる。いいことづくめではないかと思う。しかし、それはそれとして、そうは言っても。

病理組織像をとことん深く見る訓練をしないまま病理医としてキャリアを積んでいくのはもったいないのではないか、と私は思う。もっとみんな顕微鏡ちゃんと見たほうがいいよ。おじさんはそう思うよ。