べきべき折るべき論

車の気温計をみると14℃とある。日が落ちてしばらくたつとはいえ6月下旬としては寒いほうだ。しかし本州の暑さが異常なのである。一年の1/3くらいが寝苦しいというのは温帯の定義にそぐわない。人間が生きるのに一番ほどよいのは北海道である。ほかの地域は増えすぎた人間が過ごすためにしかたなく住んでいる次善の地に過ぎない。北海道だけが住むべくして住んでいる「真の地」なのである。ほかの地域に住んでいる人たちは人間が住むにはきびしい場所をがんばって開拓していて偉いなと思う。


車を買い替えた。音がしずかなハイブリッドなのはいいが、動き出しにクオーンという音が鳴るのが不自然で未だに慣れない。低速走行のときは基本的に電気駆動だ。モーターが動いていないと走行音もほとんどないために、歩道の人間が車に気づかずにはみ出てきたりしてしまうので危険だから、わざわざ音を鳴らしているという噂を聞いたことがある。音姫みたいなものだと言えよう。本来、車というのはブオオンという音を出す乗り物で、私たちはその音によって危険を察知していた。技術革新によって音がなくなると車自体の危険度が上がり、人を守るために本当はなかったものを付け足したりするはめになっている。


少し前に購入した外付けキーボード、HHKBはCtrlキーなどの配置がWindowsのそれとはちょっと違う。Macだったら使いやすかったのかもしれないが私は未だになれない。打鍵の感触は最高……と言いたいところだが、正直そこまでの違いはわからない。キーボードを買う前にさんざんっぱらパンタグラフタイプがどうとか教えてくれた人たちがいたがいざ自分で試してみるとそこまでの違いは感じられない。超一流プログラマーほどではないにしろ私はそれなりにキータッチをする仕事についていて、毎日けっこうな量の入力をしているにもかかわらず未だにこのキーボードの良さを感じ取れない。ぶっちゃけそこまで違わないのではないかとすら思っている。たしかにノートPCのデフォルトのキーボードよりは100倍打ちやすいけれど、人体に合ったキーの配列がどうとかエルゴノミクスがどうとか、そういう理論は大げさだったのではないか。私は買い物で失敗することがあまりないのでちょっとうれしくてこうしてブログにまで書いてしまっている。経験の元は取れたというべきかもしれないが正直このキーボードをそこまで礼賛する理由は私にはよくわからない。愛着はある。



本当はどうあるべき論をひとりでこねくり回している。

どうあるべきもなにもあるようにしかないしなるようにしかならないのだが。

こうでなければいけないということはないのだが。



これまであまりやりとりをしてこなかった某学会の事務局が機関誌の編集も担当しているらしく、たまに編集部校正のメールが事務局から送られてくる。言葉遣いがいまいちフォーマルな日本語になっていないのが気になる。私がDeepLを使って海外のドクターにメールを送るときもこういう、「意味はとれるし間違ってもいないのだけれどどことなく受け手との距離感がおかしいメール」になっているのかもしれないということを気にする。ただ、くだんの事務担当者に向かって、メールの文面とは本来こうあるべきでしょうと指摘するのは違うだろう。本当はどうあるべき、みたいなことはひとつもない。ここにあるのは「こうなっているもの」であり、「結果としてこうなったもの」である。配られたカードで勝負するしかない、という有名なセリフがあるが、そもそもトランプは52枚プラスジョーカー1つもしくは2つ以外存在しないからよいのであって配られる前にカードゲームを選んだ時点で私たちは「細かいことはともかくそういう枠組み」の中でやっていくしかなく、配られたカードには基本的にランダム以外の要素は少なく、本質はかすみ、本来性はあいまいとなって、私はいつも「めぐりめぐって今日はこの不具合とお付き合いしていくしかないのだな」という気持ちになる。