スピキンワーゾビウィズダム

ヤギとかヒツジがメェェと鳴くとき、冒頭のMの部分は「口を開ける前に声が出始めている」ことを示している。なんとなくぼうっとしていて口が開きっぱなしのヤギであればメェェではなくエエェェと鳴くはずだ。ここでふと思い立って検索をした。英語圏ではヤギやヒツジの鳴き声はバァァ(Baa)と記載するそうだ。声がではじめてやや遅れて口が開くときの音が、MではなくBとして聞こえているということになる。言いたいことはまあわかる。英語圏でなんとなくぼうっとしていて口が開きっぱなしのヤギはバァァではなくアアァァと鳴くだろう。エエェェもアアァァもやっちまったオタクっぽい雰囲気であり共通している。だらしないヤギはやっちまったオタクだ。だらしないウシはオオォォと横山三国志の馬超になり、だらしないネコはイヤァァとブルース・リーをはじめる。


「マシュマロ」というSNSをはじめてしばらく経つ。一瞬で飽きたからもうやっていない。というか開設したことすら忘れていた。このSNSは匿名で質問を送ることができ、それにXを経由するなどして返事を返すといういわゆる質問箱的な使い方をする。さっき通知が届いて、新しい質問が来た。こんな質問であった。

「今年はナスを植えたんですか?」

それを知ってどうしたいのだ。こんな質問ばっかりくるから私は飽きたのである。札幌中の家庭菜園を夜中にチェックして私の自宅を割り出すつもりなのかもしれない。それは気にし過ぎかもしれない。瞬間的に思いついた答えは「ナスを植えている私のほうが好きならそのように想像しておいてください」というものだったが返事はしなかった。こういう答え方をするからストーカーが図に乗るのである。ちなみに今年の畑は追肥もちゃんとしているし雑草もこまめに抜いているので見た目がきれいで妻もほめてくれる。私が札幌の病院を去ったらこの畑はどうなるんだろうということが少しだけ気にかかる。自然のままに任せたら即座に廃墟的になっていくのが畑というものだ。定期的に手を加えることでようやく静けさが手に入る。


世にあるものをそのまま見ようと思っても切り分け方や解釈にたくさんの主観がはいるので「そのまま見る」ことはできない。しかしそういうかたいことをいわず、厳密さを抜きにして、自分の中で納得できる程度での「なるべくそのまま見る」ということは、やってやれないことではない。近頃の私もあなたも世の中で起こっていることを「そのまま見よう」としているはずだ。できるだけ虚心坦懐に見たいものである。なぜならだまされるのはいやだし誘導されるのも気分が悪いからだ。ありのままの姿見せるのよ。ポリゴンのレンダリングぜんぶ剥がせってことですか? ゴジラマイナスワンが技術の賞をとったから監督はほくほくしながらゴジラのCGのフレームをつぎつぎとテレビバラエティショウで開陳。あの世界における物語がつぎつぎと解体されていくことを私はかわいそうに思った。役者がかわいそうというのではなくて物語がかわいそうだと思った。虚構を虚構のまま維持できないような物語を作るのはかわいそうだ。ライオスが絵画の中に自分を書き込んだときのことを思い浮かべてみてほしい。持続的に物語を維持できないタイプの人間が創作をした先には悲劇が待っている。神が人を作ったという。物語の中にいる人間たちの慟哭を思う。


このあと大学の研修説明会に出向く。私は「教える側」として学生や研修医に当院の特色を説明する。ありのままの姿見せるのよ。バーチャルスライドスキャナはおろか病理医ごとの個室もろくに与えられていないISO15189の監査担当者に「がんばってますね……」と同情されたわが検査室をそのまま見せるのよ。歩きながらスマホで5分程度の動画を撮ったので今日はこのあとこれに生実況を付ける。非常に評判のいい説明で毎年たくさんの笑いを誘うが当院で病理研修を選択するドクターはひとりたりとも現れない。自分がかわいそうに思った。うちの病院で病理の研修をすると医学がおもしろくなりすぎて病理が第一志望だったやつらも臨床医になっちまうんだよな。