以下、一般的・普遍的なことを書きたいわけではなく、私の立場と経験とキャラクタにもとづいて私による私のための文章を書く。何についてかというと、教育について。
私が高校生くらいのころ、教育のトレンドはすでに「背中を見て学べ」ではなかった。
「職人の世界では、師匠が弟子に具体的な手順や方法を語ることはなく、弟子は師匠を見て盗むしかない」
みたいな話は当時すでに伝説化していた。ほっぽらかしの教育には厳しい目線が向けられるようになっていた。教育とは手取り足取りがあたりまえで、教師に求められるスキルはホスピタリティであり生徒の個性にあわせたオーダーメイド性であって、もし生徒が勉強につまずいた場合、教わる側だけでなく教える側にも責任がある。「先生ガチャ」という言葉は存在しなかったが、概念はすでにあった。数学の先生がぜんぜんだめだから私は今でも確率が苦手だとか、日本史の先生のおかげで私は歴史に興味を持つことができたといった、「先生の教え方のせいで私はうまく学べなかった/学べた」という言説を日常でよく耳にした。というか今もXでたまに見かける。あのころの高校生たちは当時の気分を引きずっている。
私たちが生徒だったころ、「自分がこの学問に興味を持てないのは先生のせい」という他責思考は十分に正当化されていた。それはある種の共通認識だったし暴力装置でもあった。
逆に、あのころは「人気講師」がいた時代でもあった。参考書や問題集を探しに大きめの本屋に行くと、予備校の人気講師が講義形式で語るタイプの本がいっぱい出ていた。「代ゼミ 〇〇 白熱講義」(〇〇には人の名前が入る)とか、「駿台〇〇式集中講」とか、「河合塾 〇〇の解法」みたいなものが花盛りだった。受験生であった私は、予備校講師の講義形式の本を読んで無機化学や微分積分などを勉強した。
「教え上手」とは体系を構造立てて語れること。思考の道筋を的確にナビゲーションできること。キーワードを粒立たせピットフォールのまわりにキープアウトのテープを貼れること。教わる側に飽きや眠さを感じさせない語り口。究極的には声色とか文体とか、なんなら教師自身の顔が魅力的であることまで含まれていた。
幾星霜を経て、これらの風景はいずれも少し古びたように思う。名物教師、カリスマ講師の時代は去った。令和のいま、教育はふたたび、師匠の背中を見て学ぶ様式に戻りつつある。
もちろんすべての教育がそうとは言わない。冒頭に断り書きしたように、これはあくまで、「私から見た」教育についての話だ。
私がもっか仕事でかかわる「医学生に対する教育」に、「名物講師」という価値観はそぐわなくなっている。教え上手であることは必要条件でも十分条件でもない。なぜなら、昨今の医学生たちはそこまでひとりの講師に責任を負わせない……というか……教師ひとりにそこまで興味を持たないからだ。
今の医学生たちはかつてよりもはるかに容易に師匠の背中を追いかけることができる。オンラインに見て盗むためのツールが無限にあるからだ。検索、連続視聴、倍速再生、一時停止→スクショ、保存、シェア、拡散。背中を追いかけるどころか、師匠のお腹も頭頂部も足の裏も、腹の中までもAR的に見ることができる。豊富な動画と多量の口コミのキメラを仮想教師に生成して学ぶ医学生たちにしてみれば、飛沫がかかる距離で物理的に鼓膜を振動させてくるひとりの講師の言葉が占める影響力は相対的に低い。
ある医学生が病理学の試験に落ちたとする。かつてであれば、それは「わかりにくい講義をした講師のせい」であり、「いい過去問を残さなかった先輩のせい」であった(もちろん本人のせいなのだが落ちた本人はたいていこのような他責思考を抱えていた)。しかし今は、病理の講師の教え方が悪かったと考える人間は少ない。要は、その医学生がスマホやiPadを駆使できなかったから、たくさんの教材を効果的に使うことができなかったから試験に落ちたのである。大学の講師の教え方がへたなことなど織り込み済みだ。というか、大学の講師の印象などほぼないのだ。インターネットを駆使して無数の優れた教材を手に入れて上手に勉強するのが現代の医学生の必須スキルであり、必修試験を落とすというのは端的に「勉強がへただから」であって、講師に他責している場合ではない。
ここで私は、「現代、医学を教育する側にはもはや責任がない」と言いたいのかというとそうではない。
私たち指導者の側は、もはやカリスマ講師にはなり得ないしなる必要もないが、「教材の一つ」として博覧される覚悟をするべきなのだと思う。
実際、今の私は、医学生や研修医相手に「わかりやすく説明する」という態度をとっていない。わかりやすくしゃべれないという「不可能」の面もあるが、わかりやすくしゃべりたくないという「意図的」な面がむくむく大きくなってきた。
医学生たちに「わかりやすい指導」をするべきなのは、学年が近い研修医や専攻医たちだ。いわゆる屋根瓦方式というやつで、近接したナラティブを共有した人間が、少し先から学生を導くやり方は十分に有効だ。しかし私はもう46歳で医師22年目。屋根瓦のたとえでいうと、現在地上にいる医学生たちから見て五重塔の四階くらいに佇んでいる立場である。そんな私が医学生たちに「わかりやすく教える」ということ自体を薄ら寒く感じている。
今どきの学生たちは私のことを数ある動画のひとつとして見ている。すでに多くのしゃべりの達人たちがYouTubeや会員制医療サイトの動画で初心者向けの知識や医術を解説しており、それにプラスして私が医学生の前で何をできるか/すべきか。それはきっと「彼らにとって一番親身な講師になること」ではなく、「誰よりもわかりやすくしゃべること」でもなく、「切り抜き動画の素材になること」だ。切り抜かれる頻度はさほど高くないかもしれない。けれども、どこの世界にもマニアはいる。
私は、誰に替わられてもいっこうに悪影響の出ない代替可能な人生を生きつつ、私にしかできない独自の人生も微妙にミックスさせた、ごく平均的な暮らしをしている。その私が「なんかいろいろな物語を背負って今こうしてうごめいているよ」というものを提示し、それを切り抜き動画にしたいと思った一部の好事家が私の一部分をうまいこと切り取って資料にしてくれれば十分である。
それが教育における私の立ち位置であり責任なのではないかとわりと本気で考えている。
若い人向けの「講演」は卒業する。より年の近い人たちに講師役を渡して私はさっさと消える。「まだまだこれからですよ、先生の話を聞きたい人はたくさんいますよ」と声をかけてくれる人は全員私より年上であり、「手取り足取りの平成仕草」がしみついた人ばかりだ。今はそういうのはもう流行らないと思う。かわりに、若い人向けの勉強の「素材」になる。ならなければいけない。それが中年の責任だと考えている。若い人たちに直接対面する必要なんてない。私は若い人から遠く離れてベテラン相手に全力を出してしゃべり、それを若者がなにかの拍子に切り抜いて、ほかの講師とまぜこぜにして瞬間的にバズる動画になったとしたら、それが私ができる最高の教育ではないかという気がしてならない。