納得感爆盛りメイク

「透明感爆盛りメイク」というのを動画で見た。この場合の透明感というのは何を意味するのだろうか。

皮膚が透けてみえると言いたいわけではあるまい。皮膚が透けたら皮下脂肪が見えるし、さらに透けたら顔面の筋肉が見える。皮下脂肪なら黄ばみ。筋肉なら赤茶色。つまり本当に透明感が増したら顔面は黄ばんだり赤鬼になったり進撃の巨人になったりする。でもそういうことではない。

当然のことだが透明と透明感とはまったく異なる概念だ。印象を言葉にし、それを読み取るというのは難しい。字義は奥深い。

透明感爆盛りされたモデルの顔をいろいろ見比べてみると、さまざまなパターンがありうることに気づく。ときに陶器のような白、ときに健康的な青み、清涼感のあるピンクみという初めて表現するタイプの印象を抱かせる人もいるし、単に顔面が奥行方向に立体的で正面から見た時にいわゆる小顔に見えるだけの人が光のバランスや服飾雑貨との相性によって透明感あると表現されていることもあるし、丁寧でロハスな暮らしをしているキャラクタが先入観となって透明感あるとインタビュアーが言いたくなってしまうだけのパターンもある。本人は別に普通なんだけどカメラマンが透明感のある現像を達成したケースもある。

一様ではない。

我々が口々に「透明感ある~」と呼ぶタイプの人は多彩だ。しかしその一方で、透明感という言葉ひとつがそこそこ普遍性のある印象を喚起してくるのもまた事実である。ぜんぜん違う顔なのだけれどなぜか、どこか、たしかに、透明感あると表現したくなる一群がある。これまでダーッと書いてきたように私が全力で茶化しても乗り越えるだけの説得力があるワード、それが「透明感」である。

ふと思ったのは、「くすみ」に対するアンチテーゼとしての透明感なのではということ。くすみは血流の悪いかんじで、灰色や青、メラニン色素の濃い茶色などが混じってテクスチャがばらついた、マットかつ粒度が粗い雰囲気を指す表現であろう。「透明感」に比べると「くすみ」のほうが定義が容易だと感じる。そして、そういったくすみが感じられない顔面に、反対語として「透明感ある」という言葉を提示するのではないだろうか。透明感という概念が単独で屹立しているのではなく、まず「くすみ」というヴィランが存在し、それに引き立てられる形で透明感というヒーローが出現するのではないか。

となるとメイクで透明感を出すにあたっては、くすみを積極的に干渉させて消去していくような、色相環と色温度を考慮した積極的な塗りつぶしの技術が大事であって、それはつまり「肌の奥まで貫通させるようなメイク」をするという意味ではないだろう。



このような考察を一切の実践(じぶんできちんとメイクをするということ)をなさぬままに脳内でこねくりまわすことの罪がある。メイクの達人は先の私の表現を「そういうことではないよ」と一刀両断にするだろう。一見、理屈が通る分析であっても、毎日肌に筆を乗せている人間からすると感触の部分で「それはまた別」と言いたくなることだろう。だからここからは、私が毎日きちんと化粧筆ならぬキーボードでニュアンスを乗っけている仕事の話に変換する。つまりは病理診断の話になる。



「この腫瘍はかたまりを作っているけれど、この領域はわりと整った形をしていて、ここの部分だけはぐちゃっとしていて不整である」みたいな表現をどこまで突き詰めていくか。病変を見て語るにあたり、さまざまな言葉を代入して、おのおのの医師が好き勝手に目で見たものを共通認識として育てていく。このとき、肌を見るのと同じように、「ここは透明感がある」とか、「こっちはマットな印象がある」とか、「ここは黄ばんでいる」とか、「ここだけくすんでいる」といった表現を用いることができる。そしてこのように語ることで形態診断学に主観が入り込み、再現性が落ちる。ひとりの医師が自分の思ったとおりの言葉をただ述べることで、ほかの病院で働く別の医師にその意図が伝わりづらくなる。

伝わりづらくなるのだが、しかし。

「ここはなんとなく透明感があるじゃないですか」と医師が言ったとき、たとえば海外の内視鏡医が、「ホワッツぜんぜんわからないよ日本人はオタクな読み方をするね」みたいに嘲笑することがある。しかしその「透明感がある」と感じた理由を、病理組織を見ながら丁寧に因数分解して、「表層の上皮はよく分化していて細胞どうしの丈が揃っていて粘液の産生が一律なのであまり乱反射が起こらず光が透過しやすく、深部においては拡張腺管があって中に粘液が溜まっているから腺管内腔の輪郭がスムースでやはり屈折や乱反射をおこしづらいので、総体として透見性が高まっているように見えるのではないか」と解釈することで、あっ、なんか、それ、わかった! と、共通認識にしてくれる人たちは確かにいる。それは洋の東西を問わずいる。


しのごの理屈を言うんじゃなくて実際にメイクしてみればいいと、センスと経験で言語化を超える仕事のほうが、私はだいぶ崇高だと感じていて、病理診断のように言語化以外で戦うすべを持たない仕事を少し残念に思うことがないわけではない。しかし、私たちにとって、病理診断報告書にとどまらず、臨床医が疑問を持った病変の形態を、研究会や学会、さらには飲み会の帰り道などに、さまざまな理屈と表現を用いて言い表していく営為は、透明感爆盛りメイクほどではないにしろ何かをもりもりと積み上げてその病変の存在を世界に向かって「見ろ! ここにこうしているぞ!」と発信していく作業にほかならず、まあ、悪い仕事ではないんじゃないかなとも思うわけである。