ファンベースではない側の大人

10年くらい前にはじめて自分の口から出た言葉を今も「たしかに……」と思い出すことがある。なにかというとそれは、

「SNSがうまい人というのは結局のところ受信がうまいのだ」

ということだ。その意味で私が前のTwitterアカウントを運用していたときにはSNS強者だったと思う。タイムラインの隅々に目を配りフォロワーのアイコンも15万人ちかくほとんど把握していて、いいツイートを見つけるのが人より少しだけ早かったぶん、リツイートも愛されていた。私をフォローしておけば私以外の優れたネタアカウント(?)や医療従事者アカウントの情報を得られることがべんりだったと思う。あのころの私はSNSの「ハブ空港」として機能していた。ハブ空港というのはスケートを上手に滑れるとか将棋が強いとかマングースと対決するという意味ではなくてつなぎ目としてのハブ。インチョン空港やチャンギ空港がアジア中に飛んでいく便利な中継点であるのと同じように、たしかにあのころ病理医ヤンデルはSNSにおける軟式広報や医療情報のハブであった。

さて、私が今、こうしてなんの役にも立たないダジャレアカウントになった最大の原因は、じつは「ダジャレしかつぶやいていないから」ではない。ほかにある。はっきり言うが受信が弱くなったのだ。私はSNS弱者だ。SNSでほとんど受信をできていない。

以前とくらべるとはるかにタイムラインを見なくなった。同業他者の小粋なポストを見出すことがなくなった。友人の動向も追いかけられていない。するとどうなるか。私をフォローしている人たちが「ほかの医療者が言った役に立つこと」を知る機会が減る。私よりもつまらなくて妙にクセになるダジャレをいうネタアカウントをかつての私はばんばん拡散していた。今はそういうことをあまりできていない。となれば私のフォロワーが得られるものは、「私のつまらないギャグオンリー」となってしまう。

病理医ヤンデルは昔も今もずっとギャグ言ってるよね。それはそう。しかし大幅に変わったことがある。それは「病理医ヤンデルをフォローしても病理医ヤンデルの話題しか手に入らなくなったね」ということだ。これは広くたくさんの人と交流することを目的としたSNSにおいてはかなり致命的な変化だ。

かつての私はもう少し、ほかの医者や医学生などが行っている情報イベントを積極的に見に行ってRTを手伝った。今はできていない。そもそも見つけるのがとても下手になった。医者が医療者のやることを応援しなければ業界は縮小する。「てんでばらばらなところで暮らす医者たちが異口同音に言っている情報なら信用できる」というSNSの集合知性みたいなものを、あなたも感じたことがあるだろう。そういった雰囲気づくりに近頃はちっとも貢献できていない。

そしてこのことは私だけではなくてけっこうな医療系アカウントにおいても同様に言えることではないかと思う。

タイムラインにおけるポスト表示のアルゴリズムが変わったからというイーロン・マスクイコールウンコ案件と結びつけてもいいのだが、たぶんそれだけではなくて、かつて、Twitter医療情報発信全盛期にSNSで活躍していた人びとが単純に歳を取ってTLを見なくなったのだ。みんな偉くなった。出世した。忙しくなった。もっとも、SNSばかりやってクラファンで人気取りに励んだあげく本職の評判を落としてアカウントを削除したり転生したりしたアカウントもいる。悲喜こもごもだ。ともあれ、10年も経てばみんな暮らし方が変わるのだから、そこはやむを得ない。

そして変わったのは暮らし方だけではなく社会におけるお互いの距離もなのだ。かつてよりもはるかに、「同業のやつらががんばっているから応援しよう」というムード自体がレアになりつつある。たとえば、医学生がほかの医学生の活動を応援するシーンを私はほとんど目にしない。「自分の発信も伝わらないのに人の発信なんか応援しない」的な空気が前よりも強まっている。首都圏の大学でフリーペーパーを作っているサークル同士がぜんぜん連携しないためにフリーペーパー文化が大きなものに育っていかず内輪の文化祭のノリを超えられないといった構図に似ている。ノブレス・オブリージュ? そうやって意味もわからず外来語でかっこつけるから分断は深まる。コミティアの支え合い文化? そうそう必要なのはそういうことだと思う。意味もわからずオタクムーブで距離を取って分断を深めてしまったな。

自らの言いたいことを広めるためには、似たようなことを言っている他者を応援することも必要だ。それはオプションではなく主戦場である。そのことを理解していた人びとは当時Twitterという特殊な場を劇場にすることに成功した。

ちなみに、自分のことしか発信せず他者の活動に関心を持たない原理は、じつは昔から存在した。そういう人びとは基本的にサロンを作成して少数の濃厚なファンを囲い込み、毎月の会費によって自分のぜいたくな暮らしを維持することにステータスを全振りしていい服を着ていい物を食べた。今やサロン文化は高度に孤立してクローズドサークル内でエコーチェンバーの温床となっている。本人たちは勝ち切り、逃げ切りできるから今生はそれでいいのだろう。でも医療情報を伝えたいと思うときにその手段は使えない。

私がかねがね医療情報の発信にクラファンを使うことに反対なのは、クラファンというやり方がクラウドファンディングなだけでなくクラウド内にファンを形成するファンベースのやり方と縁が深いからだ。ファンベースのメソッドは、自分とその身近な人びとの幸せを増加させる役に立つし、コンテンツを扱う商売すべてにおいて有効だと思うが、はっきり言って公益に与することを目的とした医療情報の共有においてはデメリットも有すると思う。ファンが集まって場を固めれば「発信者」は盤石となるけれど、医療情報において盤石にしたいのは発信する我々ではなくて「受信対象者」、というか国民全員だ。ファンベースでやっていくと発信者がかなり支えられるので持続性という意味ではほんとうに得難いやりかたなのだけれど、一部の人だけが幸せになる方式だからパブリックを見据えた発信とは相性が悪い。そのあたりのバランスに身悶えした私は、かつてSNS医療のカタチで、クラファンはやらない、でもグッズ販売はお手伝いしてくださったクリエイターの方への恩返しの意味でもやったほうがいい、グッズというアイコンが文字や言葉以上に印象を語ることはあるから医療情報発信においても継続的なビジュアルアイコンを設定することはやったほうがいいだろう、それにしてもチケットを有料にして情報イベントをやるというのはどうなのだろうか、それは今後無料のYouTubeの集客を高めていくためのアクセントとして必要なのだからやむを得ない……こういうことを毎日毎晩考え続けて七転八倒した。転げ回っているうちにいつしか私はタイムラインを眺めて他者の発信に目配りすることができなくなっていった。


「SNSがうまい人というのは結局のところ受信がうまいのだ」


この言葉は自分の口から出たがやはり振り返ってみても至言である。現在、XやThreadsやBlueskyといった中年のためのSNSで私はうまく受信をできない。それは多くの中年や老人たちにも言えることだ。一方で若者たちは高確率でXのフォローゼロフォロワーゼロアカウントを持っており、トレンドのチェックをするためにXアプリを開いてインプレゾンビの中から芸能情報やスポーツニュース、マンガの新刊情報などをチェックするが、もはやここをコミュニケーションの場には使っていないし、まして公的情報の収集には一切用いていない。では私たちも若者にあわせてBe Real.やTikTokに主戦場を移すべきなのか? 私はそうは思わない。そこで私たちが新たな「発信」をできるかもしれないが結局「受信」はできないだろうからだ。それではだめだと思うのだ。

今後私たちは……私はどうするか。ふたつの考え方がある。ひとつは越し方を振り返り古き良きTwitterというものを神格化して現代にブーブー文句をタレながら以前の自分を真似て中途半端な受信を繰り返すこと。もうひとつは、Xを……まあいいや、もうひとつはいい。やめておく。それよりもXではまだやり残したことがある。まだXにはかつての私のように「ここで医療情報をなんとかする」と思って奮闘している人たちが残っている。私はまず、そういう人たちを少しでも受信できるように日々の生活を見直すことからはじめなければいけない。日々ランニングをすることが体にいいのになかなかできないでいる私が、日々タイムラインを見続けようというのだ。体にだって悪いし精神にだって悪い。それでも誰かの役には立つかもしれない。となれば仕方ないなあよっこいせと、かつて「ぼのぼの」に描かれていた、かくれんぼをする子どもを探しにいくときの大人のふりをするしかないのだ。なぜなら私は確かに大人なのだから。