書くものがいくつかあり、脳内で同時に進行している。詳しくは書かないがひとつは履歴書のような建付けで、ひとつは偉人の伝記のような構造で、ひとつはnoteのクソエッセイと五十歩百歩である。それぞれまったく違うところから別の理屈で依頼されたものなのだが内容がときどき混線する。だいたい似たような時刻に3つの文章のことを考えているからよくないのだ。効率が悪い。なにより、相異なる仕事を「根底で貫く哲学」のようなものに頼りたくなってしまう瞬間があり、そんな自分を上品ではないと感じる。
「先日ぜんぜん違う場所でこのような体験をしまして、ああ、これって今日の話にも通じるなあと思って……」みたいな話の組み上げ方は、語り手に昏い快感をもたらす。自分で伏線と名付けて自分で回収する仕草。私もたまに使ってしまう。でも、聞いているほうからするとなんだかあざとい。「はいはい、結局そうやって自分の信条につなげたいんでしょ」みたいな気持ちになる。
脳内にある複雑な迷路。入口も出口も何通りもある。ここに思考のたびに違う液体を流し込んで異なる流路をつくりあげ、その都度違う渦の模様を見る。これが思考だと思う。一方で、毎回違う液体を流し込んではいるのだが、入口と出口を決めてしまっていて、ルーティン的に同じ順路で流路を作り上げていくような「いつも決まった理路で思考する」ということもやろうと思えばできる。でもそんなのは思考としてはずいぶんつまらないほうのやり方だ。一見異なる世界の話を通り一遍のやりかたで解析していくタイプの自己啓発本やセミナー講師。人間の脳の可能性をそこでおしまいにしてしまうのかと悲しい気持ちになる。金銭という明確な目標が脳をありふれたパチンコ台に変えてしまう。なんともさみしい話だ。
万華鏡を見るようなものだ。みずからの肌や実感から遠いところで勝手に生じている乱反射を眺める。他人がつねに同じようなやりかたで画一的な思考に回帰するとき、あたかも、子どもが自由研究で作った万華鏡のように、「ある程度くるくる回しているうちにパターンが凝り固まってしまった点対称の模様」と同種のつまらなさを感じて放りだしたくなる。かつて、民俗資料館に古くから伝わる古びた万華鏡がすごいと思ったのは、回しても回してもひとつとして同じ模様が出てこないことだった。本来脳というのもそういう作り物なはずなのにな、と、タイムラインに「月末にあわてて更新したnoteの数々」が猛スピードで流れていく中で少し肩を落とす。でも、世の中は捨てたもんじゃない。あの作家のnoteを見ろ。あの漫画家のnoteを見ろ。ほら、いつも、自らの脳を電気の流れる針先でつんつんとつついて、やれ左手の薬指が勝手にはねたとか、背骨の下から3番目が急にかゆくなったと、思いも寄らない反射を目にしてケラケラ笑っている。万華鏡の新しい模様が私の視界に広がっていく。出来合いの万華鏡を捨てて溺愛の万華鏡を手にする。