歯磨きをしたあとに口をゆすごうと前かがみになるときに自然と左手を洗面台のへりに突く。腰に重さを感じており、前屈すると腰骨のひとつが後ろにポコンと外れてしまいそうな恐怖がわずかにある。それらを自覚するより先に左手が予防的に動いており、みずからの左手が動いていくのをなぜだろうと感じた私の意識があとから遅れて「腰、お前だったのか」と悲しきごんぎつねのように解釈を付け加える。そして次に同じ行動をするときには、左手が自然と動くより前に「そういえば前回はここで左手が自然と洗面台のへりを掴んだんだったなあ」と意図が先行するようになる。そのまた次の回には「私はこのあと左手が自然と動く理由を動作よりも先に考え始めるクセがついているなあ」といった感じで、意識と無意識とが乱取りするような激しいチキンレースを繰り広げる。どうでもいいけど乱取りーチキンレースって書くとタンドリーチキンカレーと80%くらい相同だなと思った。タンドリーチキンのタンドリーって何?
家でできないようなお洗濯サービスをワンコイン程度でなんとかしてしまうコインランドリーは現代の物価高についてこられていない。まあ安い分にはありがたい、で思考をやめてしまうのも悪くはないがちょっとおかしな話だよなと思う。だってこれで稼いでご飯を食べている人だっているはずだろう。しかし洗濯、掃除あたりの物価はなかなか挙げられないのだという。マイナスをゼロに戻す仕事はお得感がないから、消費者が料金を高いと感じがちなのだろうな。
医療もいっしょだ。具合が悪くなって機嫌も悪くなって病院に行って元の元気な状態に戻してもらってお金を払うというのは泣きっ面に蜂そのものである。医学が進歩すればそれだけ料金も高くするべきなのだがそこは絶対に値上げしてほしくないと誰もが願っている。「医療費ってほんとうにバカにならないよ、毎月これで800円もとられるんだからね」、まあそうなのだけれど野菜だって魚だって昔から高くなっているのに科学の粋を集めた医療費がそんなに上がっていないことを「ラッキー」としか思わずに日々を過ごすというのも奇妙な話ではないか。しかしゼロをプラスにする仕事と同列には語れないわなあ。
大学時代さいしょに一人暮らしを試みた部屋の家賃が17000円であった。木造2階建てで玄関には共同の靴箱があり、業務用のカーペットが敷かれた階段を上がって廊下の左右に部屋が並んでいて、ドアを開けると一部屋に申し訳程度にキッチンがついているが給湯器はない。ちなみにドアの施錠はプチンと押し込むボタンタイプ。合宿所の便所といっしょだ。1Kと1Rの中間くらいの部屋で、冬は左右と下の部屋からぬくもりが漏れてくる安普請。トイレは共同。風呂はなくシャワーがコインで借りられて30分300円くらいだった。私は風呂を銭湯や実家で済ませて、コインのシャワーを使う機会はとうとうなかった。その体験に300円は高いと思った。銭湯のほうがもう少し高くて確か当時は380円とか400円とかそれくらいだったと思うのだけれど、私にとってボロアパートのシャワーはマイナス100をマイナス5くらいににするものでしかなく、銭湯はマイナス100をプライチくらいに上げるものだった。その差は大きかった。
学生や単身者向けの下宿にコインのシャワーというのは今もあるのだろうか。コインで支払う文化のままということもあるまい。黒ずんだタイルの貼られたシャワー室内に「ペイペイ!」なんて響き渡ったら私は恥ずかしくてもうそこを使えなくなるだろう。とはいえ物価高に伴いコインシャワーを北里柴三郎シャワーにしますと言われたらやはり私たちは怯んでしまう。北里柴三郎シャワーってなんだ。