悲しいサーフィン

世界はつねにどこかが未熟で過渡期でありどこかは飽和して空洞化しつつある。それはたとえばコーヒーにクリープを入れ続けるみたいなもので、流体の中で濃度差ができて渦を巻き続けるように、いつか遠い未来に空間が冷え切って物理的に死ぬまで、気が遠くなるほど長い先の先まで、全体が均質になることはない。完熟して枝から落ちた実のそばに芽吹いた若葉が育つ過程でアブラムシに食われてしなびて死んだ結果土壌のバイオダイナミクスが充実したところをミミズがかき回す、みたいなことがミクロでもマクロでもほうぼうで起こっている。

仮に私たちが世界を均等に見据えることができたら、平等を感じるだろう。だってすべては移り変わるものなのだから、あなたのいる場所も私のいる場所もいつかは過渡期でいつかは停滞する、そこに差別も区別もできないのだから。

しかし、私たちは残念ながら神や仏の目線をもたず、世界の中の偏ったどこかを限られたいつかに眺めることができない。となれば生まれてから死ぬまでの間に、

「世界は幼いなあ」

と感じるか、あるいは、

「世界は倦んでいるなあ」

と感じるかの、どちらかにしかたどり着けない。そこは均霑化できない。


そして私たちはどうやら資質・指向性みたいなものによって、「できればなるべく未熟な領域にコミットしたい派」と、「できればなるべくマンネリな領域にコミットしたい派」に分かれているように思う。前者は説教臭く後者はアイロニカルだ。私はどちらだろうか。なんとなくだがアイロニカルでシニカルなほうに少し重心を傾けているような気がする。




オリンピック選手への誹謗中傷が止まらないというニュースを見て、おなじ社会で暮らしているはずなのに受動と反射のバランスがこうも違う人びとが世の中にはいるんだなということをあらためて感じた。巾着袋をうらがえすように内面を外部にさらけ出す手法が一般的となった現代、自らの立ち位置、あるいはそこから見える風景を不足だと言って騒ぎ、あるいは逆に過剰だと言って騒ぐ。

世界は渦の中にあるのだから波はいつだって立っているし凪いだ場所も幾秒か後には次の波に飲まれる。しかし、その理の上で私たちは、幼若にも腐敗にも寛容であるべきなのに、残念ながら、心の中で育て切っていない未熟な言葉を過剰に空間に失禁することで成り立つマネーゲームに参加してしまっている。

世界は悲しい暴力を別の波で洗い流すためになおさらうねる。そこで次の若さや老いに殴りかかるべく人びとは次の漁場に向けて波を蹴る。

悲しいサーフィンに終止符を打つためにできることはないのか。

世界がうねり続けることは人には止められない、しかし、そこで誰に向かってどう言葉をかけるかかけないか、脊髄反射の微調整みたいなことをおろそかにして何が知性か、何が人間かという気はずっとしている。本当にあなたがたはそうやって腕を振り下ろすためにこの世の中に生まれてきたのか。