アニメーターが描いたものしかアニメには映らない

ブログの書き溜めが3本しかなくなっていた。ここのところ時間のかかる原稿にかかりきりだったのでブログをいったん書かなくなっていた。そういうことがあってもいいように6,7日分くらいの書き溜めはしているのだが、さすがに3日分しか残っていないというのは異常事態だ。たとえばここで私がコロナとかインフルにかかればぴったり3日分くらいのストックは消え去る。感染対策をいくら心がけても体調が悪くなるときは悪くなるからそこまで織り込んでおくべきだろう。私は自他ともに認めるミスターホワイト企業で、自分が3日くらい病欠しても仕事に支障がないように常日頃からゆとりを持ってはたらくことをモットーとしていて、そのために夜討ち朝駆けを問わず意識あるかぎり自分の仕事を前倒しにすることが日課となっており、明日やる分の仕事を昨日のうちに終わらせる。Do yesterday what you can put off till tomorrow.



時間のかかる原稿のひとつはインタビューだ。私が考えたことを私が自分でまとめるのとは勝手が違う。人にたずねた内容をまとめることはとても時間がかかる。職業ライターは偉いなあ。感心ばかりだ。尊敬する人間に会って話を聞き、文字起こしした内容を読んでどのような順番でまとめるかを考えるとき、紙面的に・読者的にわかりやすい組み合わせをまず考える大脳新皮質と、語り手の奥に隠された真の意図をちら見せするにはどうしたらいいかと呻吟する脳の古い部分とが鍔迫り合いをする。みんなにこれを読んでもらい、なにかに役立ててほしいという気持ちはいつだってあって、それは私が文章を書くことで考えたことを人に伝える仕事(※病理診断)をしているから当然のことだが、しかし、インタビューのときに感じた言語化しえない畏怖や尊敬の念、「なんかよくわかんないけどこの相手がこうやっていることで世界はきっと変わっていたのだろう」と気付いた瞬間のざわつく伏線回収感みたいなものをまったく無視して、「言語の共感性」だけに依拠して文章をまとめていくことに、私は罪悪感をおぼえている。共時性さえ保てれば共感性なんてじつは要らないのではないかと思うことがしばしばある。

「この人の言っていることを今はわかりきらないけれど、あのときあの人がああやって言って考えていたということを覚えておこう」と思わせるような文章。私はそういうものを書いたほうがよいのではないか。

「伝えたいことを伝える」ことが、常に一番大事なのだろうか。

「そこにあったという事実と時刻だけをきちんと書き留めてあとで何度も掘りに戻れるようにする」ことも書く仕事の大事な使命なのではないだろうか。

そういったことを考えつつ売れないものを書いてもしょうがないのだという圧倒的な経験則が私にバランスの微調整を迫る。だからどうしても時間がかかる。



時間のかかる原稿のもうひとつは教科書だ。原稿というか原稿になる以前の資料集めの段階でかなり苦労している。幾人かの人に協力してもらって症例を集積し、それらを見通して共通点とか相違点とかを浮き彫りにするという、これまでたくさんの人がやってきた普通の仕事を私も普通に行っているのだが今回はいつも以上に時間がかかっている。「そこにないものを見落とさない」ということがむずかしい。症例のリストを眺めて、あれもある、あれも手に入った、あれも大丈夫、と確認するよりもはるかに大きな労力をかけて、あれがない、あっちも足りない、あれがなければ意味がない、という不足分への目配せに膨大な時間をかけている。

すぐれた教科書というものにはいくつかの種類があり、理屈に無理がなく洞察がするする流し素麺のように進んでいく通読に向いた教科書を私は好むが、それはそれとして、網羅性が高くて「あんなことも書いてある、こんなことまで書いてある」と読む人をおどろかせるような百科事典的な教科書もすばらしいと思う。私は今回「百科事典を通読できるように編む」ということをやりたいのだけれどどうも力不足ではないかとおびえる日が多い。ちなみにこの仕事はどこから依頼されたわけでもなく編集者もついていないしそもそも出版の予定がないのだ。しかしやっておきたいので勝手にやっている。



ある(べき)ものをある(べき)ままにすべて記すということをやるには文章は不向きなのではないか。いっそ写真などでまとめてバシャリと撮ってしまえばいいではないか。私はかつてそのように考えていた。しかし写真家の方々の話を聞くと、写真だって撮りたいものを撮るには技術と訓練が必要だし、現像とはつまりは編集なのであるから写真も文章もある意味では同じように悩まなければいけない。絵画や音楽のように言外のニュアンスで包括するという手もあるのだろうが私には荷が重く、であればやはり、あるものをあるままに記すために私がやるべきは、プロの写真家が1000枚写真を撮ってからクライアントに3枚渡すのと同じように、1000回文章を書いてそのうちの1回を世に出すという物量攻撃なのではないかと思う。