デフォルトアプリ全部消す派

人間のさまざまな生理現象は、さまざまな選択圧の末に今こうしてこれくらいの範囲におさまっている、といった類のものである。これだけ顔も身長も性格も食べ物の好みも異なる人間たちの体表体温が36度5分前後に集中していて、せいぜい上下1,2度ずつくらいしかぶれないというのもすごいことだ。体内の酵素活性や流体の粘性を現在の複雑さをそこなわずに保てる至適温度がほぼ37度である。30度とか46度とかだと生体の長期メンテに悪影響が出る。

頸椎の数が決まって7個なのには、おそらく骨格の構造的に一番荷重に耐えうるのが6個でも5個でもなく7個だからという理由はあるだろうが、それだけではなく、頸髄後根が担当する神経の数と分布がこれ以外の数だと狂うという理由だってあるだろうと思うし、というかそれは理由というか結果的にそうだったのだと思う。私たちの首がフクロウのように360度回らないことにも頸部の血管や食道・気管を守るためにはこれくらいの回旋範囲がちょうどよかったのではないか、すなわち可能な範囲だけでなく制限がかかっている範囲にもおそらくすべてなんらかのメリットがまぶされているのである。

これらの「人体構造」は決して「先に目的ありき」だったわけではなく、進化の気まぐれによってたくさんのバリエーションが生まれては適者生存の理によって淘汰されてきたものと考えられ、膨大な試行と錯誤の結果、いまたまたまこうなっているという暫定解である。ただその暫定解に至るまでの時間が爆裂に多いからいまさら私たちが人生という短い制限時間内にあらたな人体の可能性を切り開くことはなかなか難しい。6本目の指や3本目の足を生やしてもそれを長期間にわたって使いこなすことに利点は見出し難く、ただ、ここがじつにおもしろいところなのだが、たとえば指1本とか足が片方使えなくなった状況に陥っても私たちはすぐに破綻することなくなんかうまいこと脳がそのへんを補正して、把持における指の使い方をチューンナップしたり重心とのかねあいで体軸の傾きを変えたりということを無意識に行える。「ベストの状態をうっかり外れてもそこそこ補正できる」という能力すら備わっているのだから進化恐るべしと言わざるを得ない。

そういったことを考えに考えているある日、大事な会議の最中に鼻毛がくるんとまるまって自らの皮膚を刺激してくしゃみが止まらなかったり、その日の夜にうっかり若い頃のような気分で飲みすぎてトイレで吐いたりする。今のこのくしゃみはどう考えても生きていくうえでなんの役にも立っていないだろうとか、飲みすぎて吐きそうになるのをなんとか意志の力でおさえこみつつ今この反射消えねぇかなと呪ったりするとき、人体に備わった無数の適者としての機能も万能ではないなとためいきをつくし、でもこうしてくしゃみをしたり吐いたりする能力が備わっていたからこそ乳児のころの私が偶然生き延びたということもあったのだろうなとか、この先私がうまいこと老いてからもまだまだ老い続けるために必要な反射ではあるのだろうなというように自分をなぐさめていく。車酔いとか、汗っかきとか、緊張しぃとか、そういうのもぜんぶ、気付かないだけで私たちに小さなラッキーをもたらすための体の機能なんだということを私は知っている。ただときおりそれらを「買ったばかりのスマホにデフォルトで入れられている要らないアプリ」のように感じることもあって、さっさと端末から消してしまって2年後くらいに「しまったあれ入れとけばよかったのか」と後悔したりする。