髪の毛を染めたら色が少しうすすぎて、朝や夕方のように陽光が斜めに入ってくる時間帯には私の頭はだいぶ茶色く見えてしまうようである。病院勤務するからには黒髪以外は患者に圧迫感を与えるからよくないだろうと思って、勤務し始めてからずっと黒髪以外で暮らしたことがないのだが、ファッションで茶髪にするのではなく染髪の失敗で茶髪になってしまった自分を見て、つくづくままならなさを噛みしめる。ヒゲや鼻毛や眉毛にも白髪が混じり始めており髪だけ染めたところでもうどうしようもないのだということもわかっている。
使い古しの体を毎日だましだましホメオスタシスに持っていく。
それでいて脳だけが年を取れば取るほど新しいことを次々と考えつくかというと、もちろんそんなことはない。
おそらく脳も、それが為す果実である思考も、ブランニューでクリエイティブな活動ができたのはせいぜい20代までで、今はあちこち固くなったり痛くなったり、取り繕うことに失敗したりしてツギハギなのである。
ボロ布のような思考の抜け落ちを補完するために、追加の布地をアップリケのようにピタピタ貼り付ける。あるいは古民家を直しながら住む、みたいな感じだ。補修、張替え、添え木、再塗装、その先に、見たこともない肌理の思考ができあがる。その思考は、理路整然と、一列に並んで因果がしっかり示されているようなものとはちょっと違う。
そのツギハギのテクスチャが見た目には珍しいから、「なにやら中年というのは若者とは違うことを考えているようだ」と勘違いされている。まあ、実際に、違うことは考えているのだけれど、その違いは、「朝は腰痛がひどくて立ったまま靴下が履けないから座って履くようにしました」みたいに、しょうがなく、その場しのぎで、だましだまし、補修的に生まれたものではないかという気がする。
先日、「言葉がなければ思考はできない、言葉に制限される範囲で思考も制限されている」と言っている人たちを眺めていた。たしかに私も単語を用いて思考はするけれど、はたして私の脳内で、単語がきちんと文章になっているのだろうか、ということが気になった。「単語がきちんと文章になっているのだろうか」というように、口に出したりキータッチをしてブログに書きつけたりすると、それは確実に文章のかたちで思考したことになっているので、この感覚は少し説明がむずかしい。けれどもおそらく、私の思考は必ずしも文章に規定されているわけではないのではないかと思う。
私は単語を頭の中の原っぱに撒き散らしている。それらを高台から眺めたり、同じ地面の高さから(サッカー選手がお互いの距離や移動の方向や加速度を測るようなかんじで)眺めたりする。この状態は、なるほど「単語に規定されている」ことは間違いないけれど、文章ほど単語同士が順番に並んでいるわけではないし、文法的なものにも必ずしも則っていない。思考がこのような状態をとっている時間は一日の中でもけっこう長いと思う。
マンガで登場人物がよく「ひとり語り」をする。食べ物を見たり風景を見たり人を見たり過去を見たりするにあたって、ふつうのフキダシではなくひとり語り用のフキダシにあれこれつらつらと思うところを述べる。しかし、私たちは本当にああやってフキダシの中に文章を入れる形で思考をしているだろうか。いつもではないにしろけっこうな確率で、フキダシ以前の、文章以前の状態がけっこう長く続くのではないか。
単語を意味がわかるようにつなげてしまうと、そこにはたとえば主語や述語といった「要素わけ」がはじまるし、連体とか修飾とか因果といった連環が生じる。しかし思考の最中に主語がないことはしばしばある。「今日はいい陽気だなあ」と文章にしてしまうともうオリジナルの思考とは違っている。「今日は」なんて思っていないし「だなあ」も後付けだ。まして英語のようにIt's a nice breazeなんて言ってしまった時点でそのitどこから出てきたんだよとかbreazeだけじゃねえよとかいろいろずれていく。とはいえ、「いい陽気だねととなりにいる人と噛み締めたい」と思った気持ちをスッと人に説明してコミュニケーションに用いようと思った瞬間に、文章になる、というか文章にせざるを得ない。
思考そのものを共有することはすごく難しい。
特に、非文章的な思考を共有するには、単語を選んで順番に並べるという形式では不可能であり、たとえば絵画や動画などの力を借りないとだめなのではないか。音楽ですらだめだ、だって音楽は音符が順番にならぶことで何かを語るものだから。でも、まてよ、音楽のように、楽器がユニゾンして違うメロディを重ね合わせてひとつのコードに持っていくような表現には、線形の情報とは一味違う何かが含まれているのかなあ。
ともあれ思考を共有することは、少なくとも文章の形ではすごく難しい。しかし私たちは文章を一番多く使う。話すにしても、聞くにしても、書くにしても、読むにしても。
まとめると、「思考が言葉に規定されている」はまだいいとして、「思考が文法や文体に規定されている」というのは言い過ぎではないかと思う。しかし、その思考を「共有」する段になると、とたんに、猛烈に文法や文体による介入がはじまる。
そしてテクスチャ的だった思考は後景にひっこむ、というか、マスクされてしまうのかな。
たとえば誰かとのやりとりの中で思考を練り上げていく、ブレインストーミングみたいな会議を頻繁にやっている人は、事実上、「文章で思考する」ようになってしまうのかもしれない。「なってしまう」なんて悪いことのように書いたけれど良し悪しではない。けれどもそれはつまり「テクスチャ的だった思考」の持っていた質感とか肌理感を失うことにつながるのではないか。
コミュニケーションとは無縁の場所で、ひとり考えているときだけ非文章的な思索が支配的になる可能性が残る。
でもどうかな。自分と会話し出したらもうだめだってことかな。自分と会話するってそんなに文章で会話してるかな。子どもはわからない。でも大人はしてるだろうな。
「子どもの発想はおもしろい」のではなくて、「大人の発想はコミュニケーションの過程で文章化されているから文法や文体や単語に規定されざるを得なくてある程度狭い範囲にまとまりやすい」ということなのではないか。
「文章という、時間軸に沿って連綿と情報をつなげて何かを伝える形式のもの」の可能性や限界に向き合い続けてきた文学者や哲学者があちこちにいる。
彼らはそのすばらしい思考の成果を文章によって世に残すことにジレンマをびんびんに感じて、その都度たくさんの表現方法とか体系とか構造とかポスト構造主義みたいな話をとっくにたくさんやっている。私が生まれる前にも生まれた後にもそのあたりはきちんと話題になっていて、思考とはなんなのかということを私よりもずっと考えている。
そして、そういう人たちが世のどこかにいる状態で、世に出てくる文章は、全部ではないにしろ少なくとも一部は、そういう文学者や哲学者の影響で「そっちの考えに基づいた洗練」に向かっている。
日常の何気ない会話とかSNSのくだらない一文とかも、文学や哲学がどこかにある世の中では、知らないうちに「文章で思考すること」に支配されて変形済みなのだろうなとも思う。
私の目の前に流れてくる文章は、発する人も受け取る人も知らないうちに、先人たちの試行錯誤を経た社会によって、沢の水が土壌にろ過されるがごとくに影響を受けていて、「こういう文章が伝わりやすい」とか「こういう文章だと誤解を招く」といった先達の経験の恩恵を受けている。そして、「文章に規定された思考」がますます当たり前になっていく。
思考が社会化することで、思考が文章という様式に支配されるのか。
でもなあ。細胞を見てこれは癌か癌じゃないかと考えているときの思考は本当に文章であるべきなのかなあ。
癌か癌じゃないかを誰か(例:臨床医)と共有したいがために文章の形式で思考するようになってしまっているだけで、ほんとうは、文章の形式で思考して癌かどうかを判断しているわけでは、ないんじゃないかなあ。
文章にすることはとても大事だし、文章にできないテクスチャを共有する方法が、生活や人生においてはもうないかもしれないけれど、細胞のようすを共有するという狭い範囲だけでも、達成できないものかなあ。
うーん。行間で語るというのはなあ。幅のある解釈を許すということが、医学において許されるかという話にもなるからなあ。
AIにまかせられる話でもないよな。演算の過程はともかく、出力の過程は人間の文体を学習してしまっているからな。
となると……そうだなあ……。
あとからツギハギしていく、ってことかなあ。絵画的、補修的に、一度線形化してしまった思考に注釈を付け加えていく。一度提示した因果をぼやけさせる。コピック重ね塗り。
でもそれは『病理トレイル』でもうやったんだよな。あれはひとつのメソッドではあるけれど、すべてではないんだろうな。
ああ、そうか、『病理トレイル』で私はそれをやりたかったのか。そうか。
トレイルランニングは「一本の長くくねった思索」のモチーフなんだけれど、そこを私はテクスチャに戻したかったのか。
なるほどそうだったのか。金芳堂さあん、そういうことだったみたいです。言語化できてなかった。いいのか。言語化してはだめなのかもな。