彫琢のゆるキャラちょうたくんはセオリー的にはたぶん豚っぽいデザインになる

なんか、あんまり仕事がない日というのが1年に何日かある。ずーっと忙しいほうが自分らしくていいのに、今日は、ぽつりぽつりとしか仕事がない。電話はばんばんかかってくるけれど、その都度わりとさっさと解決してしまう。学会や研究会の準備は来年の1月の分まで終わっていて、2月以降の講演プレゼンはまだ作っていないけれどさすがに先の話過ぎる、今プレゼンを作っても話すころには内容が古くなっているだろう。仕事中だけど勉強に回すか? こういう日に限って読むべき資料とか教科書の類もあまり残っていない。ウィッチウォッチの最新刊でも読むか。仕事中にそこまで割り切れるほど私は遊び上手ではないのだ。

こういう日だとわかっていれば夏休みにしたのにな。こういう日だとわかっていれば早朝から指定席自由券をにぎりしめてJRに飛び乗って釧路経由で根室まで6時間半かけて移動して、季節によっては花咲蟹の食える店で入荷している刺し身を適当に食ってビールをあおってさっさと寝たりできたのにな。でも私はおそらく、そうやって急に休みをとってもよい職場にいたとしても、なんだかんだ理由をつけてもったいぶって、結局は出不精の才能をいかんなく発揮して正々、堂々、職場で呆然とし続けているであろうことを誓います。


私はいつも口だけだ。

あり得なかった現在を夢想するばかり。

手に入らなかった過去とかではなく、

これから突撃していく未来とかでもない、

今にもあと一歩足を踏み出せば、あと1センチ指を伸ばせば届くかもしれない「ぎりぎり未達のほぼ現在」を、

その場でじとっと見据えて「あー行ってみたかったな」「あーやってみたかったな」とさっさと完了形にして後悔を前景化させて話をおしまいにしてしまう。




こんな文章をいくら書いても読む人には何もいいことがない。




先日、あるnoteを読んだ。それは「人に読まれるための文章」についてああでもないこうでもないと持論を述べるものだった。「読んで読者が得をする文章でなければだめだ」みたいなことを書いていた。まあそうだね。クリックしてもらってなんぼだね。いいタイトルをつけなきゃね。最後まで読み切ってもらってなんぼだね。途中何度も感じ入ってもらわなきゃね。文章内で宣言していることを文章内で達成しなきゃね。読み終わったら満足してシェアしてもらってなんぼだよね。ほんとに、そういうことを、異口同音にあちこちから振りかけられるインターネットになってしまったつっっまんねぇなああ。

近頃は一切合切何を読んでも「文章を読んでもらった総数が金銭として自分に返ってくることを成功とみなす文章」ばかりで、飽きてしまった。

「めっちゃくちゃ読みやすくてすっごくひっかかることを書いててほとほと感心するんだけどぜんっぜんバズってない文章」を読ませてほしい。そういうのが読みたい。吉増剛造の詩集みたいなのが読みたい。渡辺哲夫の診療記録みたいなのが読みたい。『これやこの』はよかったなあ。

「結局文章なんてのは読まれなければ意味がないのだから、少しでもたくさんの人に読んでもらうためのお化粧をする努力を怠ってはいけない」みたいな説教ばかり聞くようになった。解答編の最速ネタバレみたいなノリでみんなが我先に「読まれるべき!」「読まれなきゃ無駄!」とうるさくてうるさい。まあそう思うんならそう思って暮らしていけばいい。極めて当たり前で普通の結論だからつまらないけれどそう信じている分には勝手だ。けれど、10代、20代の若者が、それはなんかおかしくないかと感じて、「いや、誰にも読まれなくても価値のある文章というのはあるはずじゃないですか」みたいにナイーブな反論をしたときに、鼻で笑って「だめだろ笑、なら人前で書かずに自分の部屋でノートに書いてなさい笑、そうしないのなら結局あなたの中にも人に読んでもらいたいという欲望があるってことだ笑」みたいにマウント取る人間がうじゃうじゃいて、うんざりする。知恵がオーバーヒートした人型の猿。まったくしんどい。

そうか? ほんとうにそうか? 読まれない文章、もっと書いたほうがよくないか? いやマジでそうやって若者を足蹴にして笑っているけれどほんとうにそうか? 逆張りという意味でなく、自分の心の唇をサンドペーパーで研磨するような作業が世の中全般にぜんぜん足りてなくないか? さりさりコツコツじりじり、こすったりひきずったりちょしたり、誰もこっちを見てなくても、感性の神経終末にノイズを与え続けるだけの「読まれない文章」を、もっと書いたほうがよくないか? マイルドな自傷だよ。まんねりの自虐だよ。それをさも「サブカルクソ野郎の失敗メソッド」みたいにまとめてしまっているけれどそこ本当にそうやって失敗パターンに全部入れちゃっていいのか? 成功者を自認しながら内向を否認する40代、50代のモノカキたちはすぐ、「人に読まれることから逃げちゃだめだ」とか「読者から逃げちゃだめだ」みたいなことばかり言う、そういうのにわりと飽きた。何に圧をかけようとしてるんだ。どこを押さえつけようとしてるんだ。作家になりたい半チク半グレに覚悟が足りないといって「プロの編集者的なにか」が説教をする構図がさすがにちょっと流行りすぎだ。あんたら、ほんとうにこの先、「誰にも読まれない文章を書きたい人生だったなあ」と後悔苦渋で鼻うがいする人生を歩まないと自信持って言えるのか?

「人に読まれない文章を書いて投稿するなんて破綻している、投稿するならば投稿先にいる人のことを考えて、どうやったらその相手に読んでもらえるかをもっと本気で悩んで絞り出せ」

いや、うん、そう言わないとやっていけない業界の人がいるってのはわかる、ていうか飽きるくらいに承知、でも、「書いて生きる」ことを自分の狭い常識の中に押し込んでしまっているとは思わないか。



私たちはたまに指先や舌先で自分を彫琢して、自分という木石から観音様をほりだすようにする。ただし観音様がきちんと全身掘り出されてくることはなくて、観音様の一部分だけ、つま先とか服のすそとか慈悲の断片とかが見えたり見えなかったりする程度で、削ってるうちにたまたまいい形だった部分がポロッととれてしまってまたもっさりとした流線型に戻ってしまったりもする。鏡とかレーザー測定機とかを使わず自己認識が客観的でないから、自分を振り返らず仰ぎ見ずに彫り続けるから、偶然自分の一部からいい形が出現してもそれに気づくことなく、彫り終わることがなく、安定せず、観音様は観念してくれない。でもそういう彫り方、そういう書き方が、私は今でもあると思う。あり得ると思う。読む人になにもいいことがない文章。誰にも届かない文章。自分がけずれる文章。そういうのを読みたいと願う奇特な人間はたいして金も持ってないし支払いもしぶいから書いて食っていくことはできないよ。で? 食っていくために書く人々の言うことがかっこよく聞こえる側にいる人間だったんですか?