越し方をおしはかり行く末を振り返る

その教授は何気なく、いつものメールの中にさほど重心もかけずにさらっと一行書いてよこしただけだった。でもそれきり私の頭の中に、教授の言葉がずうっと残っている。こんな言葉だ。

「教科書を読めば書いてあることは、講演で聞きたいとは思いません。」

そうか。そうか。そうだよな。うぐぅと一声、喉頭がないた。


放射線技師相手、臨床検査技師相手、看護師相手、医師相手。いくどとなくプレゼンをしてきた。病理学の講演だ。画像・病理対比に関するものが一番多い。

病理学の知識というのは、多くの医療者にとって「中高までは習っていた古文・漢文」くらいのものである。建前上、知らないとは言わないが、しかし日常診療でほとんど使っていないので、まるで覚えていないというくらいのもの。英語を習っても英会話を続けていなければとっさのときに口から英語は出てこない。病理だってそれと一緒だ。大学で習ったあと、国家試験を終えて臨床で働き始めて何年も修行して、その間いちどもプレパラートを見たことがなく病理医と会話をしたこともないならば、覚えていられるはずもなく。

したがって、私の講演はいつでも、「やりなおしの病理学」からスタートする。いちからしゃべる。教科書的なことからしゃべる。


日頃からプレパラートをご覧になっている方は多くないと思いますが、なあに問題ありません、ちょっと見かたを覚えれば、どなたでも十分見られます。それに、究極的なことをいうと、プレパラートなんて見られなくても大丈夫なんです、観念の部分だけわかっていればそれでなんとかなるものですよ―――

この青ッぽいところが核ですよ。こっちのピンクは壊死なわけです。ここには血管が通っています。線維化ってのは硬いんですよ。硬くて厚くてひきつれる。硬くて厚くてひきつれるからこそ、形態が変化して、触診でも触れられるようになるわけですよ―――

浸潤していれば癌です。圧排していれば良性です。Cyst in cystならcystadenoma。数珠つながりならIPMN。HCCは間質の線維が少なく、iCCAは逆に線維が多いんです―――

ばっさりばさばさ。わかりやすく、単純化して、シェーマでこれこのとおり、教科書レベル、誰でも今日からファンランナー。

本当は、ぜんぶ教科書に書いてある。

いちいち私のような講師に聞かなくても、読めばわかるのだ。

しかし、私はこうも言われてきた。

「いまどきの若い人って、本をぜんぜん読まないんで、基礎的なところから何度も説明してあげてください」

そうだそうだ。みんな本なんて読まないのだ。教科書にお金をかけないのだ。動画だって最初の20秒でつまらなそうなら消しちゃう。キャッチー! 映像的! 人の心を惹くことが第一! 厳密さは二の次!




「教科書を読めば書いてあることは、講演で聞きたいとは思いません。」





17年間かけてさまざまな講演プレゼンを作ってきた。でもこの1年くらい、少しずつ、いろいろなプレゼンを作り直している。過去のプレゼンはどれも私の全力だった。90分のプレゼンに450枚のスライド。パワポにマウスで描きまくった大量のシェーマ。1000例に及ぶ画像・病理対比。みんな私の宝物だ。しかし、最近、それらを大事にしまいこんで、同じテーマのプレゼンを、あらたにいちから作り直すことが増えた。

教科書を読めば書いてあることだけでプレゼンが終わっていないだろうかと気になった。

100人の聴衆のうちたった一人だけであっても「とことん難しい話を聞きたい」と思っているかもしれないと気になった。

結論が見えている話だけではなく、私自身がまだ悩んでいる最中の話にも、もしやニーズがあるのではないかと気になった。

教科書を読んで、これまでの私の話もさんざん聞いたことがあって、それでもなお、新たに私が作ったプレゼンを見たら前以上に圧倒された、みたいな体験を、私は生み出せているのだろうかということが気になった。



私が長年やっていることは、なんとなくだけれど、新作落語を作り続けている若い落語家のそれに似ている。新作落語は新しいからこそ価値がある。「十八番の新作落語」というのはちょっとだけテンションが下がる(うまい人はうまいが)。それと似たようなことをおそらく私はしている。

こんな私も、いつか、古典落語に挑む日がくるかもしれない。「教科書に書いてあることを書いてあるとおりにしゃべっているだけなのに、あの医師から聞くと、まるで違って聞こえるんだ!」なんて思わせられたら一番すごいと思う。

本当は、くだんの教授に、「今日の君の話はぜんぶ教科書に書いてあると思うけれど、しかし、君の口から聞くと圧倒的におもしろいねえ!」と言わせるくらいでないとだめだったのかもしれない。

でもまだ私はおそらく、そこまでの真打ではない。「過去最高の新作落語を今度おろします!」という感じで、じたばたやっていくしかない。「あのときサボって古典落語的講演をするようになったばっかりに、私はあれから、小さく小さくしぼんでいったな」と、未来の私が今の私をがっかりした目で見ている、その目線を受け止めている。冷たい目線が心に刺さる。