いちいちハラスメント

某講座(基礎系)の教授が「やっぱりある程度の蓄積は必要だと思うんですよね」と言って、肩を落とす。

ちかごろの医学生は、来たい時にラボにやってきて、できる範囲のことをして、けっこういいデータを出すという。学校の本来の勉強やバイトや部活以外に「アディショナルに」基礎研究をやる。学校から義務として課されているのではなく、自分の成長のために、基礎系講座に出入りして、医療だけではなく医学を学び、臨床だけでなく研究も行う。その意気やよし! たいしたものだ。医学生たちはあれもこれもと手を出して、どれもわりといい感じで結果を出す。充実している。スポーツで全国大会に出つつ趣味で弁論大会に出るかたわらバイトで荒稼ぎしながら旅行に行き美食を楽しみ学会発表をして論文を書き誕生日をパートナーと祝う。それはさぞかし楽しいだろう。華々しいことこの上ない。

昔の医学部生たちはそこまで多彩な生活を営んではいなかった気がする。授業と別に打ち込むものとしての部活 and/or バイト and/or 勉強会 and/or 基礎講座での研究、ここでいう「andの比率」は決して高くなくて、どれかに打ち込むためにどれかはあきらめる、「or」が優勢だったように思う。しかし今の医学生は違う。とにかくandでこなしていく。みんな頭が良く、コミュニケーション能力に長けていて、自分の意見をしっかり持っており、意欲も旺盛だ。ビュッフェなら全品制覇する勢い。デパ地下なら試食で3000 kcal摂取する勢い。

医学生という存在の進化の速さといったらどうだ。おどろくほどだ。

しかし、あれもこれも上手に乗り越えていく医学生たちは、けっきょくのところ、かつての医学生に比べて、研究に打ち込んだ時間自体はたいした量になっていない。若い人たちの脳が中高年のかつての脳よりも100倍優秀なのは事実だが、昔の医学生の1000分の1しか努力していなければ成果は10分の1ということになる。まあそんなに数字で切り分けられるものでもないけどな。

彼らにとって、学部時代に基礎講座に通うというのは、「研究というひとつのピースが青春という大きなジグソーパズルの一片になる」以上の意味はないように見える。寝食を忘れてどっぷりと打ち込む医学生というのに出会わなくなった。働き方改革だとかハラスメント防止策にまみれて消えた。ワークライフバランスのような解像度の低い言葉のせいではないかとも感じることはある。複雑系がバランスで成り立ってるの当たり前なのにそこであえてワークとライフだけ強調するのって性格が悪いよな。

きちんと積み上げた迫力を出す医学生に会うことはない。才能とキレ味ばかりだ。若さとはそういうことなのだから、べつに、悪いということにはならない。しかし、つまらないなと感じることは正直ある。

教授は嘆く。「なかなか育たない」と。なるほどそうなんだろうな。



しかし、学生や研修医をそうした原因は、かくいう私たちの世代にある。若い人をあまり引っ張り回したらだめだよ、時間外にいつまでも働かせたらだめだよと、管理職は絶対に下に無茶な働き方をさせてはならないという金科玉条を無条件に受け入れて、「ほらほら17時になったからもう帰ってくださいね」「今かかえている仕事は大丈夫ですか? やれる分だけでいいですからね」「無理はしないでください、人生は長いんだから」と、徹底して若い人を甘やかせて、残務とか事務とかをどんどん自分で引き受けてきた。人生は仕事だけじゃないんだからしっかり遊ばないとだめですよ、休まずに長く働くことは無理なんだから最初から休むことを織り込んではたらいたほうがいいですよ。そうやって若い人から次々と仕事を取り上げて自分でこなしてしまったのは私たちのほうだ。

ブルシット・ジョブという言葉がある。生産性がなく個人の向上にもつながらない雑務をそうやっていやがる本がポコポコ出て、若者も中年もかなり影響を受けた。個人的には、今の社会が「名前のついていない家事」に敬意を払うのはすばらしいことだが、返す刀で「名前のついていない業務」であったものをすべてブルシット・ジョブと呼んで忌避するというのはどうなのかと疑問に思う。しかしまあみんながブルのシットだと判断した仕事は、もはや、若者にやらせるわけにはいかないだろう。であればそういう仕事は主任部長とか教授のような一番上の人間が脳を一切使わずに秒速で片付けてしまえば八方丸くおさまる。これは私の考え方でしかなくて真実とか正義とかの話ではないのでご留意いただきたいが、私は実際に長年そのようにしてきた。私はとにかくブルシット的ジョブを自分で引き受けるタイプだ。私の下で働くひとたちはとにかく病理診断に没頭できる。平日の8時半から17時まで、お昼休憩をきっちり1時間取って体調を崩さない程度に働く「だけ」で、それなりの量の勉強ができるのは、ひとえに若者たちがブルシットな事務仕事を一切しなくていいからだと思っている。主任部長が電話を代わりに取り、迅速検体の処理をし、めんどうな問い合わせをぜんぶ引き受けている間に、ゆっくりと教科書を見ながら手元の標本に向かい合うことができる。それこそが理想の教育環境だ。そこにさらに重ねて、「17時以降までそんな真剣に勉強しなくていいよ、自分の生活も大事にしないとね。病理医なんて40年以上働くんだから今からそんなに没頭なんかしても疲れるだけだよ、精神も病むし」などといっている。

それで若者に「没頭する時間が足りない」なんてよく言えたものだよなと我ながら反省する。私だ。私が若者をだめにしたのだ。いやだめにはなってないか。だめではないです。


まあ何を言いたいかというとこんなぬるま湯でも育つ才能はあるがたぶん育たない才能もある。私たちはそれをちょっとだけさみしく感じつつ、でも絶対に元には戻したくないなとも思っている。

昔のモーレツなやりかたの弊害を知ってしまった今、若い人たちに「時間をかけて働かないと何も身につかない」というタイプの指導をすることはできない。二度とできない。AIをはじめとするたくさんのツールがあるから、人間はしなくていいことをせずに「人間にしかできないこと」を短時間で効率よく行えばいい、というのが社会の求める未来の姿だ。17時以降に勉強なんかしなくていい。ゆっくり育てばいい。20代で完成される必要なんてない。全部わかっている。全部わかったうえで、もう何も変えないけれど、ただ思う、「蓄積なしに何かを成し遂げようなんて甘いですよね」と。小声で思う。小さい文字で思う。私は某教授の話を聞きながらいっしょに肩を落とした。そりゃあそうだ、と。かくいう私も典型的な多動タイプでなにかに没頭してやってきたわけではなく、しょっちゅうあちこちに浮気ばかりして働いてきたので、その意味では今の医学生から見れば「自分たちと同じようにあれこれ目移りしたせいで結局なにごとも成し遂げてこなかった残念な先輩」ということになるだろう。反面教師になりうるか? ならないだろう。だって今の若者のほうが頭はいいからだ。

私には説得力もないし、指導力もない。ただ、「健康を害さないようにゆっくりのんびり働けばいいよ」と繰り返していれば、上にも下にも怒られずに指導者のふりをし続けられるという、その一点で本当に指導すべきことから逃げてきた。情けない。

夕方になってスタッフみんなが帰宅したあと、さあみんなは帰ったけど私はこれをやっておかないとな、と一人でPCに向き合って、さほど業績にもならないような小さい、しかし物語性にあふれた仕事のプレゼンを作る。ああ、私はこの先どうやって若い人に何かを伝えたらいいんだろう。呆然とした気分になるのである。努力しろなんて流行らない。背中を見ろってのも流行らない。教育ってのはたいへんだ。私はもう、自分の考える臨床しかできない中年であり、医学生たちにニコニコ寄ってこられても、いやあ、教えられることはひとつを除いてなにもないですね、そのひとつってのはなんですか、それはね、人生を傾けるほど自分が偏るとたまにいいことが起きるってことですよ、えっなんですかそれ、古いですね。すみません。ほんとすみません。