監修つきの長編

クソ長メールを書いて体重が50 gくらい減った。魂のMPを50消費して魔法を撃ったような気持ち。MP 50の魔法は燃費が悪いなあ。イオナズンでも8くらいなのに(※DQ3の場合)。

長いメールなど書いても無駄だ。だって誤読されるから。ダラダラ目で追っているうちにニュアンスがずれ、本当に大事なことを書いた一文が埋もれて忘れられたりもする。それよりも、なによりも、書いているうちに私の気分がだんだん変わってしまうというのが問題だ。書き始めのときにだいたいこういうことを伝えようと思っていたぼんやりした気持ちは、指先からキーボードを経て文字になって言葉になってフレーズになって文章になって、画面に焼きつけられて、その文字を目と心があらためて受信することで、思った以上に変化する。文章化した気持ちはもとの気持ちとはおそらく別物だ。宇多田ヒカルとミラクルひかるくらいには変わっている。長いものを書けば書くほどそうだ。宇多田ヒカルで書き始めた文章がミラクルひかるを介して浜崎あゆみの文章に変わっていたりする。それを誰かに読ませて誤読するなと言っても無理だ。だってまず私のもとの気持ちがどこにもなくなっているのだから。

「よろしくお願い申し上げます。市原拝」と記して、はあ、ためいきひとつ、5秒ほど目をつぶって、さあ! とメールを最初から読み返す。あれぇこんな風に書き出していたんだっけと20分前の自分の文章に驚かされたりする。まったくしょうがない。長いメールを書き終えた今のわたしがメールをいちから添削する。この表現は要らない。この表現は重複している。この表現はわかりづらい。ここには改行があったほうがいい。

ここは「カギカッコ」が多すぎる。

ここは句読点が足りない。ここは説明の順番が逆のほうがいい。ここもまた重複だ。これは最初に書こうと思っていたことだから最初にまとめよう。まてよ、書いているうちに、こんなこと相手に言わなくてもいいんじゃないかという気がしてきたな。もっとシンプルに相談だけ別に書いて送ったほうがいいんじゃないかな。そもそも何を言いたかったんだっけ。本当は何を考えていたんだっけ。

長いメールを受け取った人の気持ちもおもんぱかるべきだろう。短くまとめられないような込み入った内容をメールですんのかよ、と思っているだろう申し訳ない。短くまとめられる程度の内容ならメールなんかしないで私が解決してしまうのだからそこはしょうがない。長くしか伝えようがないからメールしているのだそこは因果が逆なのだ。ごくたまに、長いメールを受け取ることがうれしいタイプの人もいるから許してほしい。もっとも、私は人から長いメールを受け取ると100%うんざりする。自分がうんざりするようなことを他人にするのですか。まあ、「いったんうんざりしてもらうこと」も一つの目的になっているかもしれないからな。いや、そんな性格の悪いふるまいをしたらだめだろ、人として。そうかな。人ではなくメールだから。人格とメール格とは違うんだからさ。いやだめだろメールとして。そうか。





少し前から、『フラジャイル』の監修をしている。細かい現場のニュアンスを伝えるために、ここに具体的な専門用語を加えてくれませんか、というオファーがあって、フキダシのサイズにあわせて入るようなセリフを考えたりする。私が提案するセリフはいつも長くて、改行してもフキダシにおさまらない。単行本を読み直すと、あれだけ豊かな情報量を有するマンガなのに、セリフひとつひとつが俳句よりも短いことに驚愕する。そのような短いセリフを絵と組み合わせていつまでも味わえるような多層化した物語に仕立て上げる神の技術に畏怖を覚える。

私はとにかく話が長く、文章が長い。家族や友人にも長年指摘されてきた。最近はあまりしゃべらないようにしている。あいづちだけでもコミュニケーションになるのだなというのは中年の気付きだ。長く語ればそれだけ伝わるというのはとんでもない間違いである。そのことを毎日実感している。ただし、勘違いしてほしくないのだが、だから書かないということはない。私が語ったり書いたりしているのは家族や友人を含めた誰かのためとは限らないからだ。口先から出てくる声や指先から出てくる文字を私自身が第一受信者として受け止めて、ちょっと前までの自分の気持ちが少しずつ変わっていくことを第一の目的として語ったり書いたりしているかもしれないからだ。私は自分を精読し続けており、それはたいてい誤読である。そして私は生まれてこの方誤読している自らを「なんだ、そんなことも書いてあったのか」と、その都度修正しながら読み続けていくために、長く書くし、いつまでも書く。