写真家の幡野さんが、お皿にのせたぶどうをiPhoneで撮影してお子さんに見せたら、「一粒一粒が宇宙みたい!!」というとてもよい感想を言ったのだということをポストしていた。ぶどうの表面は濃紺につやめいて、果粉がうっすらとふいており、水滴もついてきらきらとして、これはたしかに泡宇宙だなと思った。幡野さんのお子さんは、多元的宇宙の映像を図鑑かショート動画かなにかで見たことがあったのだろうか。そういったビジュアルアート的宇宙観に触れたことがあったから宇宙と言ったのだろうか。それとも、そういう小難しい言葉をすっとばしてテクスチャと直接触れ合ってとっさに宇宙と言ったのだろうか。前者であったとしても後者であったとしても、どちらにしろ、すごい、それはすばらしいことだ、かもしれませんね、と私は渋谷ロックトランスフォームド状態の向井秀徳になった。SAMURAI。
手帳、持っててちょ、以外の手帳ギャグもむずかしい。かれこれおそらく、おそらくかれこれ、うーんこの場合、「かれこれ」と「おそらく」の語順はどっちがいいんだろう? 英語の場合は語順にはそれなりのルールがあるというけど、日本語だとどうかな。日本語教師をやっている人だとそういうところまで詳しく教えるのかな。まあいい。おそらく、かれこれ、15年くらいほぼ日手帳を使っている。私はそれほどほぼ日手帳を使いこなしているとは思わない、1年経って手帳をしまいこむ(捨てはしない)ときにページを振り返ってもほとんど書き込んでいないページだらけだからだ。しかし、なんか、ほかの手帳を今さら使うのもな、という気持ちである。紙質は好きだし、私がもしこれから急に紙の日記を書きたいとなったらほぼ日手帳の余白の部分を使えばいいという準備万端安心感に満足しているから使い続けている(でも普通の日記を書く予定はない)。気づけばもう10月もなかばだ。そろそろ手帳を買おうと思ってストアをのぞきにいく。デフォルトのカヴァーは持っているから中身だけ買えばよい。しかしそこでふと、けっこうなお値段のカヴァーが別売りしているのが目に入り、思わず詳細を見に行く。ストアのUIにまんまと乗せられている。
ふだんは別に、特に、特に、別に、こういうものに興味しんしんというわけではないのだけれど、私はこの革カヴァーのデザインがちょっと気に入ってしまった。無地の革商品が山程ラインナップされているのは知っていたが、でもこれまでは特段欲しいとも思っていなかったのに、今回ばかりはなぜか、欲しくなった。
買った。
無駄遣いだ。買う前も思ったし今も思っている。同じ額でおいしいものを4回くらい食べたほうが満足度は高かっただろう。しかし、私はこのカヴァーを買ってしまった。革製だからというわけではない。お値段が立派だからでもない。紳士服チェーンで買ったつるしのスーツばかり来て、休みの日はユニクロ以外を着ることのなくなった私が、いまさらちょっと立派な服飾雑貨を買ったところでほかの製品と併せようもないのだが、「手帳ならいいだろう……」という低めの声が私の中に響いた。
私はあるいは、おそらく、おそらく、あるいは、私の中に長年ひそんだっきりめったに首をもたげることのなくなった「少年の部分」に声をかけたくなったのだ。声をかけて媚びを売りたくなった。「君はこういうの、しみじみ好きだったもんな」。
ちょっと恥ずかしい。
シリーズで一番好きなのが2だ。3も好きだが2が好きだ。そして私はあの自転車がとても好きなのだ。しょうがない。デザインのUIにまんまと乗せられている。
ツナ缶と電話がつなかんない、というギャグを考えたが、イラストにするのがめんどうでまだポストしていない。先日、ふるさと納税でツナ缶を申し込んだ。そこまでお得とは思わないがツナ缶がたっぷり家にあるというのは悪い気がしない。ちかごろ、料理番組をうっかり見ると、ツナ缶の汁ごと鍋に入れるといいんですよ、へぇー、みたいなリアクションをよく目にする。いや、へぇーって言うけど、よく見るよね、だいぶ人口に膾炙してきたよね。もう、いっそ、いっそ、もう、「なるほど」とか「おなじみですね」みたいな相槌でよくないか。目を細めて心の中でつっこむが、少し遅れて、「なんでも自分のリズムに合わせないと機嫌が悪くなるというのは典型的な老害ムーブだなあ」とも思えてきてちょっと肩を落とす。もっと、こう、こう、もっと、素直な子どもの心と落ち着いたおじさんの心とをうまいこと、ブレンドしてやっていけないものだろうか。ブレンダーの気持ちがぶれんだー。これもイラストにするのがめんどうでポストをあきらめる。