人間の足腰は、前に進むのに便利な機構というよりも、どちらかというと「小回り」が効くつくりである。なんのことだかわからない人は、ガンプラにバスケのディフェンスをさせることを考えてみるといい。シュートフェイント一発で華麗に抜き去られるRX-78が容易に想像できることだろう。前方180度以上をカヴァーする目線にあわせて私たちが小刻みに体軸の向きを調節できるのは、ひとえに、股関節や骨盤筋群がじつにフレキシブルにできているからであり、私たちがこうしてうろちょろできるのもひとえに股関節が自在に外旋・内旋できるからである。腹筋や背筋だけで体幹、ひいては思惟の方向にまでねじれを生じさせることができるというのはすごいことだ。
そして私たちの身体はその可動領域によって自然と私たちの思考のありようを有限化している。たとえば思考は股関節とおなじように外旋・内旋しながら踵を返したり右往左往したりする。思考や思索や心情といった無形のものが、なんとなく股関節とおなじように方向を持ち指向性を持つのだろうと、私たちが「心というものを身体になぞらえてとらえようとしている」ことはおもしろいし丁寧に考えてみる価値がある。今の書き方はもしかすると因果が逆で、股関節の自由度を知っているからこそ思考だってこれくらいねじったり振り返ったりできるんじゃないかと私たちがそもそも信じ切っているというのがすべてのはじまりなのかなと、思わなくもない。股関節がガンプラだったら私たちは思考や態度や生き様をここまで自由にぐねぐね動かそうと思わなかったのかもしれないということだ。
ここまでを一気に書き終えて読み直して気づいたことがある。
私はもしや、「マタドール」という言葉ひとつから、マタすなわち股関節と、ガンプラすなわちドールを同時に想起して論に組み込んだのだろうか? そんな無鉄砲な展開のしかたがあってたまるものか? 偶然だと信じたいが、偶然とはつまり物理法則の要であって、私たちは森羅万象なにごとも、偶然の結果ここにあるだけの存在である? 高度に演出された偶然は必然と区別がつかない? 闘牛士を訴えたらマタドールを相手取ーるになるなあ? 句点のかわりに疑問符を打つだけでこうも不穏になるものか?
マタドールの赤い色を思い浮かべているうちに話は少し変わる。人間の怒りを定期的に駆動することで支持を集め口に糊するというタイプの生き方がある。選挙戦が行われているからいつも以上にそういう風景を目にする。強い感情というのは熱量や運動量を持っているし、反対に、感情の起伏が凪いでいると鬱滞が生じて水が腐り感染症が蔓延する。動かないよりは動いたほうがいい。そして動かすには怒りを用いるのがじつは一番簡単なのだ。だからしょっちゅう目にするのだ。
かつての私は、稚拙な論で人々をアジテーションする政治家や運動家のたぐいは世の害悪であり一切の擁護の余地なしと思っていた。今もその考え方自体はあまり変わっていないのだが、同時に真逆の感想も抱くようになっていて、つまりそこは単純な善悪の二項対立では語れないのかもしれない。これはだいぶ慎重に書かないと単なる皮肉になってしまうので十分に注意して書くことにするが、そのような「他人の感情を負の方向にひっぱり下げることで世を動かす人たち」というのは、感情がとぼしくなり足の裏が自宅に癒着してしまった人々の人間性を賦活化して彩りをとりもどさせている働きを(本人たちがそうとは自覚しないままに)担っている可能性がある。つまり害虫・害獣・悪玉菌であると同時にある種の「福祉」を担当する益虫・益獣・善玉菌のような存在かもしれないと近頃などは思うのだ。
理路を伴わない暴力で他者に迷惑をかけ続ける人間のどこが福祉なんだとあきれる人もいるかもしれない。しかし、これに限らず福祉というのはたいていどこかにひずみを生むもので、そもそも、全員がニコニコできるような場所には福祉という概念自体が存在しないものだし、福祉が存在するということは必ずその割りを食っている人間がどこかにいる。福祉というのはじつはいいことばかりではない。そのことを一般的な公共福祉を担当する実働部隊はほぼ全員がそれこそ「体で」知っているが、福祉を推進する側は意外と知らない。福祉というのはつまるところ偽悪である。その罪を自覚していない人間が福祉精神を発揮してもろくなことはないと思う。そして私がこれまで偽悪どころか真悪と思っていたヤカラも知らないうちに多くの人の運動不足を解消したりコミュニケーションのきっかけとなったりしているはずなのだ。
私たちは自分が生きていくためにタンパク質を摂取しなければならず、タンパク質とは基本的に生命からしかもたらされないものである。すなわち私たちが自己を維持しようと思えば必ず他の生命を取り込む流れになっていて、それは肉食だとか菜食主義だといった細かい定義で回避できるものではなくてあらゆる生命がそうなっている。私たちはそのことを、おそらく長い時間をかけて嗅覚や味覚からじんわりと体感し続けており、それが宗教的にはいわゆる原罪のような「自分が自分でありつづける上での後ろめたさ」につながっているのかもしれないと感じる。ただ、私たちの脳がおもしろくかつ不思議なのは、そのような感情を無変換で再帰的にドライブしつづけるのではなしに、生きている間中ずっと、「変奏」し続けるというか、そうとはわからないように何度も何度も変換し続けるようなところがあることだ。私たちは多かれ少なかれ全員が「原罪に向き合う気まずさ」に心をぴりぴり刺激され続けることでかえって生命にパルスを与えてどくんどくんと活かし生かされ続けている。そしてその変奏のやりようは人によって違う。たとえば修験者やワーカホリックな病理医などは生活自体に自罰の構造を組み込んで、「なんでこんなにきつい目に合わないといけないんだ」と思いながらもなんかそれで悟れそうだなという逆転の欲望の虜となっているし、あるいは選挙運動家などは大きめの感情で人を傷つけ自分も常時傷つきながらもどこか癒やされているというやりかたを選ぶ。これらは様式の差こそあれ結局おなじことをやっているのかもなとマタドールがくるくる逃げ回るようにシナプスがくるくる発火している。
それにつけても、人に迷惑をかけないというルールを中心に社会をまわし始めた類人猿は偉かったな。先見の明だ。何十代前かわからないけれど、今より少しだけ毛深くだいぶ尊かった先祖の猿たちの「言語化以前の躊躇」に敬意を表する。