どうやら何らかのカドで指先を切った……というかえぐってしまったらしい。鉄製のつまようじで指先に穴を開けた、といった風合いの傷から血がふくらんでいる。右手はリモコンでふさがっており左手はじんわりじわじわ出血中。妻に頼んでティッシュを取ってもらい親指にかぶせてもらってから、右手のリモコンを置いて軽く圧迫するとすぐに血は止まった。古すぎて包装がぼろぼろになっている絆創膏を貼って終診とする。
今のはふしぎだったなと思う。「思いっきり開ける」という動作をするために、親指に多少の外力がかかることを私の脳が許容したのだろう。その結果、「まあこれくらいの圧迫による痛みは出るよね」と私が納得した状態でリモコンのフタがバキッと開き、その際に左手の親指の皮膚がちょろっとえぐれた痛みも走っていたはずなのだが「まあこれくらいの痛みは出るよね」と脳は安心したままだった。そして血を見てびっくりして脳の統制がぎゅんぎゅん乱れた。少しトリップした。
神経を通じて感じる痛みと、今そこで起こっている現象とが、普段どれだけ一致しているかということだ。そしてたまにこうして不一致になると、どれだけ私は動揺するのかということだ。はからずも人間の体というものがとてもよくできているのだなということを文字通り体で理解した。
「なんのために生きているのか」を自分に問い始めないように私は精神にストッパーをかけている。ずいぶん前に居酒屋で似たような話をしたとき(するな)、そこにいる人達はみな口々に、「どう答えてもめんどうな展開になる問いは立てないほうがいい」と述べた。私も同意見だった。答えがないから問うなと言っているわけではない。「答えるために必要な語彙や経験がない状態でもなんか世の中に落ちている適当な回答を拾って自分の言葉のようなふりをして提出すればそれで考えたことになってしまうような質問」にいちいち付き合っているとアホになるで、という意味だ。「なんのために生きているのか」→「それを探すために生きているんだよ」。カァーつまんねー意味ねぇー気持ちわりぃー。「なんのために生きているのか」→「なんのためよりも誰のためかを考えたほうがきっとわかりやすいよ」。カァー虫唾ダッシューボイルティーバイ臍ー。中学生の作文みたいな思考をしないためにはドヤ顔で設定された問いを見直す。「なんのために生きているのか」。二度と問わないことだ。
それにしても私は「なんのために」にしばられがちだ。「なんのために」は呪いである。私は中学校時代に5W1Hなどという状況の仕分け・言分けを上意下達で叩き込まれたばっかりに、「疑問形には答えなければいけない」という未必の故意に殴られ続けている。「そういうフレームで考えましょうね」と仕込まれた。「そうやって分割しましょうね」と整形された。「なにをして生きているのか」「どこで生きているのか」「いつ生きているのか」。命題としてはわりと中途半端だし浅いのに、5W1Hのおかげで疑問として成り立っているように錯覚をしてしまう。
ところで5W1Hって、Whichだけ仲間外れな気がする。それは別なのでは? とずっと思っている。なにがどう別なのかはわかんないけどそれはちょっと無理があるのでは? とずっと思っている。いや、英文的にも国語的にもおかしくないですよ、って諭してくる人間の目つきがおかしい。このことはずっと思っている。リプライで意見を述べてくる人間にも言えることだ。マシュマロで意見を述べてくる人間は豆腐の輸送トラックのカドに頭をぶつけて死ねばいいと思う。
枠組みにすっかりなじんでしまった人間なので、親指から血が出るとすぐに複数の疑問文を生成して海のようにくぼみを満たし、思考の違和感を溶かしてなかったことにしてしまう。よくない傾向だ。「いつのまに血が出たのか」「リモコンのどこで指を切ったのか」「なぜ血が出るまで力を入れてしまったのか」。こしゃくだなと思う。うるせぇなと思う。理由がわかれば次は対処ができるから人間はすぐ疑問形を活用しようとする、ハァ、だまってろと思う。このリモコンの電池変えるなんていうイベント、次は15年後だろう。疑問形になんかしなくていいのだ。「あーなんかいろいろあって血が出て止まったね」で十分だ。体が覚えていてくれるだろう。翌朝、目が覚めると、かさぶたがまわりの皮膚を押し付けるせいで、怪我したときよりもずっとジンジンと痛むようになっていた。人間の体というのは不自由だ。修復することでかえってバランスを崩したりしている。余計な使命感に駆られて状況を悪くしていく改革者のようだなと思う。