ジレンマという言葉はひとかたまりだと思っていたので、あるとき、トリレンマという単語を見かけて、あっそうなの? ジ・トリなの? じゃあモノレンマもあるの? モノレンマって悩みがない状態ってことでいいの? 話がずれすぎだ。モノレンマはどうでもいい。ジレンマ→ジ・レンマの驚きについての話だ。ジエチルエーテルがジエチル・エーテルではなくジ・エチルエーテルであると知ったときの震度に近い。軽く震える程度ということである。唐十郎が下の名前ではなくから・じゅうろうだと知ったときの震度に近い。それはほとんど震えていないということでもある。
歳を重ねるにつれて小さな震えは少しずつ減っていく。それは、私が世界を広く知ったからではなく、自分の知らない世界を取り入れようとする頻度が下がっているためだろう。最近ゴルフをはじめた。打ちっぱなしからはじめた。いつかコースに出ようと思っていた。でもやめてしまった。もういいや。新しい世界への扉が音を立てて閉まる。ちなみに皆さんの頭の中で今、「新しい世界への扉」はなにか、奥側に向かって両開きするドアのようなイメージで思い浮かべられたかもしれませんが、実際には新しい世界への扉は襖(ふすま)ですので、押しても引いても開きませんが軽く横にすべらせれば十分に開きます。音を立てて閉めてはいけません。自分の右側から顔の前までは引いて開け、顔の前から左側には押して開けましょう。開ける前に中に一言声をかけましょう。
新陳代謝の過程でときおり新しいものを取り入れるというのは地味に危険なことである。いつも安心して食べているもの以外に手を出してそれが毒だったらそこで終わりだ。しかし、私たちはほどよく飽きっぽく作られていて、ときおり新しいものに手を出さないと気がすまない。これはなんかそういうふうに私たちができているからなのだろう。適者生存の過程で、「同じものばかり食ってて死んだ先輩たち」がたくさん脱落したから、今の私たちは「たまには違うものばかり食いたくなる」ようにできあがっているのだろう。ほどよく飽きるタイプの脳が、種族として長生きする秘訣だったのだろう。ただしその飽きの効力は、あるいは30歳くらいでいったん飽和するようにできているのかもしれない。少なくとも私は自分を振り返るとそのように感じる。もう前ほどには飽きないんじゃないかな。なんか別に新しくなくてもいいんじゃないかな。脳が切り替わってきている。ふしぎなものだ。そこまで含めて本能なのだろうか。
適者生存の原理は、生殖適合年齢の中央値もしくはそれより前に強くはたらくはずである。だんだん子孫を残さなくなる年齢の人間の本能がどうあろうと、種族の生き残りには関係ないはずだからだ。そいつが死んでも生きても種族が増えたり減ったりすることに関係はない。……と、ここまで書いて思ったが、たとえば40とか50とか60を越えて生きる「部族の長老」が突然凄惨な死を遂げたら、残された一族は恐怖におびえてメンタルステータスにダメージを負い、結果として生き残るための体力や知力が削がれて生存に不利になるかもしれない。うーん。私たちは孤独に生きるのではなく集団を作ってムラや社会で生きるように最適化されている。だから生殖適合年齢を越えて生きている人間も種族の一部分として取り込まれており、もう子どもをなさないからといって種族全体を長生きさせるためのファクターであることをやめてはいない。だったら、50に近くなってもまだまだ、私はいろいろなものに飽きてまた新しいことを試してもいいはずなのに、うーん、おかしい。適者生存の原理がはたらいていないのか。いや、もう、この年だと、飽きることをやめても種族のためになるということか。ああそうか。「同じものばかり食べている老害」というポジションがかえって種族の新陳代謝を正に賦活するということはあるのか。反面教師? 反抗期? そういうことなのかもなあ。
いや待て。あるいは私は、種族を永らえさせるつもりがないのかもしれない。本当は、人間のためには、人類のためには、私はときどき飽きるべきなのだけれど、飽きなくなってきている、同じ状態でよいと思ってきている、それはつまり、種族が選択圧に負けてもよいという心のなすわざ、すなわち人類滅べというメッセージなのかもしれない。思えば私はずっと、人間が気に食わないという気持ちを持ち続けてきた。我が種族の長久を祈っていないので、飽きるという力を捨てて鬱屈と停滞の中に滅びていこうと本能で考えているのか。そうだ。そうに違いない。そこにあるのは「人間が悪い」というモノレンマ。悩みねぇなー。