甃石を攀じる顫音

ブログのアクセス数解析を見ていて、読み方がむずかしい漢字をタイトルに使うと閲覧数が激減するのではないかという仮説を思いついたので本日はそれを試しています。検証結果を公開するつもりはなく私はこれをひとりで楽しむつもりである。


雪が積もりその上に枯れ葉がちらばっている。落葉よりも冬の訪れが早いとこういう風景になる。去年も見たような気がする。順繰り、順繰り、ゆっくりやってくればいいのに、秋と冬はそこそこ順位を入れ替えながらトップ争いをする。エアコンの室外機にカバーをかける前に雪が積もってしまった。車の雪を降ろすためのスノーブラシで室外機の雪をうっちゃる。次の晴れの日に十分に乾いたらカバーをかける。初日に雪かきをして作った小さな山は、冬の間に育って大きな山になる。シーズンの最初に雪を捨てる場所がとても重要だ。あまりに窓に近いところに捨ててしまうと厳冬期に窓が雪で覆われることになり割れるリスクがあるし、あまりにとなりのお宅に近いところに捨てると春になるころにはうちの雪がとなりの庭に入り込んでいて申し訳ないことになる。とにかく最初の雪を捨てる場所が重要だ。あと、最初から裾野を長くとっておくことでなるべく斜面をなだらかにしておかないと、2月ころにはマッターホルンのような雪山を登って雪を捨てなければいけなくなり膝にも腰にもよくない。理想は富士山だ。ただし富士山の左半分だけでいい。右半分は急坂でもよいのだ(どうせそちらからは登らないから)。ところで富士山の右と左というのはどっちのことなのだ。ともあれ雪の捨て方には毎年とても気を遣う。とにかく最初が肝心だ。もっとも、シーズン最初の雪というのは高確率でクリスマスまでにいったん解けるので、この時期の思い悩みはじつはあまり意味がない。ただし以前に、「どうせクリスマスには解けるだろ」と思っていたら解けずにそのまま降り積もって年越しのときにはすでにやばい大山になっていて3月には無念……ということがあった。油断大敵という言葉がある。油断のあとにくる言葉で大敵以外をあまり見たことがないが、油断必殺くらいの気持ちでよいかもしれない。死ぬのは困る。


日替わりのPC壁紙、今日はなんだか妙にさむざむとした海で、べつにこれが冬とは限らないのだろうが私は冬の海のように思えた。

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眺めるなら夏がいい。IQが下がるほどに晴れ渡った南の島の風景がいい。ちょっと昔、「世界さまぁ~リゾート』という夜中にやっていて、絶妙の頭の悪さを細かくデザインして安定供給するスタッフたちに敬意を評しながら毎週そこそこ楽しみに見ていた。「そこそこ」というのは、0時まで起きていられずうっかり寝てしまう週のほうが多かったからで、じつはそれほど毎週きちんと見ていたわけではないのだけれど、土曜日の0時ころの番組だったろうか、出張先のホテルなどではよく見たし、たまに家にいるときも、翌日の予定が10時開始くらいのときはだらだらとビールを飲みながらよくチャンネルを合わせていた。視聴率はそこそこ低かったのだろう、わりとよく続いている番組だなあと思っている矢先にきっちり終了した。

今はああいう、南の島や世界遺産や古い町並みなどを紹介するのは、もっぱらYouTubeである。YouTubeの場合、出演する人がそのままディレクションをする、もしくは、出演者とディレクターとがかなり近い関係で・意思の疎通が取れた状態で・織り込み済みのサプライズをふんだんに入れながらも究極的にはお互いわかっている状態で・番組を制作していくという、テレビとはだいぶ異なる特徴がある。かつてのテレビの旅番組のように、存在感と見た目のキレ味が突き抜けている「だけ」の俳優が、自分で考えたわけではない、それまでさほど興味を持ったことがない旅先で、予想外のアフォーダンスに翻弄されて視線を泳がせるシーンを見ることは、極めて少ない。なぜならYouTubeでは、出演者が行きたいところに行くか、出演者がびっくりするところに行くかの二択しかないからだ。その間でたゆたう成分を見ることがないからだ。

かつて、ある俳優が、雨のプラハの石畳の路をコツコツと歩きながら、有名なビアホールに入っていって、ピルスナー・ウルケルを飲むという旅番組を見た。わたしはその場所にもその俳優にも特に思い入れがなかったにもかかわらず、音と、光と、「俳優がちょっとずつもらす『意外』のためいき」に惹きつけられて、目が離せなくなった。字幕は少なくずっと雨の音がしていた。真夜中であった。真夜中であった以外の情報をなにひとつ覚えていない。俳優は背の高い女性であった。スタイルをあまり前面に押し出さないような厚手の服を着ていた。無口であった。映像のすべてがとても美しかったが、俳優の体験はそれにも増して最高に美しく、かつ、そこには「自分で用意していないもの」に対する小さな緊張がいつも走っていて、それが体験の美しさを際立たせているようだった。


GoProに飽きた。絞りを開放したコンデジで背景をぼかしたインタビュー画像に飽きた。体験を描くのに出演者の目線であることを強調するという手法は筋が通っている。しかし、「それだけ」でしかないと思う。世界に放り出された個をうつすのにそんなに肉薄ばかりしてどうするのかと思う。「だったら……」とばかりにドローンを取り出すディレクターがあまりに多くて、飽きた。そこを乗り越えてくる番組がないかと期待している。たぶん、そのうち、どこかからか出てくるだろう。今までもそうだった。これからもそうだと思う。