所要あって近隣の大学病院を歩いていたら廊下で旧知の教授とばったり出くわした。おっ、こんなところで、どうもどうもです、と声をかけるより早く教授はいわゆる「本題」を話し始めたので、頭のいい人は違うな、他施設の医者とぐうぜん大学の廊下で出会っただけでも前々からあたためていた案件についてすぐにその場で報・連・相できる思考の瞬発力はんぱねぇな、と思いながらその場で簡単にミニ会議を行うことができ有意義だった。しかしこれは激烈に頭のいい教授がやるから成り立つことであり、あとからふりかえって、廊下でこちらを見定めてから挨拶して話題に入るまでのスピードが異常に早かったことを私はもう少し畏怖すべきだったかもしれないと少し反省した。ところでずいぶん前のことになるが、私も、この教授ほど優れたエピソードではないのだけれど、妻といっしょにいるときに友人から電話がかかってきて、私が電話に出るなり「自分から」話し始めたのを見て妻がものすごくびっくりして、「なんで!? なんでかかってきた電話に自分から話題を振るの!? 相手に用件があったからかかってきたんでしょ?!?!?」とほんとうにドン引きしながら尋ねられたので、「いやでも結局相手もその用件についてだったから、手間がはぶけてよかったんじゃないかなあ」と答えたらただただおびえた顔をして震えてこちらを見ていたというわりといい思い出がある。当時の私はマイルドなサイコパスという結論に至り、今日の教授は天才というところに落ち着いている。これが実績の差だと思う。
診断のつかなかった患者の話を、医局前の廊下で主治医と延々とする。またいろいろ教えてくださいと言って別れたあと、「さっきの話盛り上がってたけど難しい診断のこと?」と声をかけられてまた別の主治医と別の症例の話を延々とする。病理医と臨床医との会話でいちばん盛り上がるのは、「いつどの段階でその病気と気づくことができたか」という振り返りに関することだ。この振り返りは必ず「自分たちの負けを見つめ返す」という意味を含む。もっとこういうきっかけがあれば、ここでこういう些細な違いに気づけていれば、たまたまここでこの検査を先にできていれば、後悔は無限に立ちふさがり、ifが雪の結晶のように分岐して増殖する。げっそりとやつれてデスクに戻り、あるいは明日診断する検体も、何週間かあとから振り返ってくやしがるものかもしれないというおそれに全身が縮こまる。
Nintendo Switchでドラクエ3をやりたいのだけれど、ドラクエはこれまで何度もリメイクされてきて、最初のFC版以外、フィールドの音楽に必ず冗長な前奏がつくのがいやで、なんだか、最初のFC版がいちばんよかったなという気持ちがぬぐえない。懐古主義だと殴られてもいい。ドラクエ3はFC版がいちばんよかった。あとからいくら振り返っても当時こそが完璧だったと思えるなんてのはほんとうに贅沢なことだ。そんな医者がいたら名医以外の何ものでもないではないか。