週末の研究会に備えて遠隔の4名とウェブ会議をする。病理所見を読んでいくとき、病理医ふたりはにこにことし、内視鏡医ふたりはむっすりとしている。全員機嫌はよいが表象のしかたが異なっている。おもしろい形態学的差異だなと思う。
秋も深まりもう冬がはじまっている。ベストを着て院内を歩き窓ガラスなどに映った自分をみると腹のあたりがふくれて見える。ベストって太って見えるんだなと一瞬思うが冷静に考えるとそんな機能はない。これはリアルに太った。肩周りもすこしふくれていて最近ワイシャツがきつい。てっきり洗いすぎて縮んだのだとばかり思っていた。そんなわけもない。少しずつ少しずつ自分の見た目が変化していく。あるときふと、階段のような段差がとつぜん現れればもう少し気づきやすいだろうが、なかなかそうもいかない。漸次の変化だ。しかし秋の服装が1年ごとにしか訪れないおかげで、昨年秋のみずからのベスト姿と今年の自分とを比べることができた。ベストにはそんな機能がある。そんな機能はない。
断片的な日常を書いているだけで内面にちっとも入っていかない日記のような文章を最近よく書いている。突入角度が浅すぎて成層圏ではじきかえされるロケットのような、侵入不可能な文章だ。しかしこの、表層を撫でて去っていく、ヒットアンドアウェイの繰り返しのような文章の中に、たぶん、私が外界との間にはりめぐらせてある結界の詠唱理論がふくまれているだろうし、私が外界との間に緩衝材のように分泌している粘液のコアタンパクが含まれているだろう。私はこれで世界と接している。UIの最も頻度高くクリックされるボタン。勝負服のいっちょうら。タマゴのアイコン。おはようございますの挨拶。だんだんブログが日記化していくというのはつまり、私がまだまだ当分の間、世間と表面的なやりとりをしていくつもりがあるということなのだと思う。
先日のウェブ講演で私のセッションの座長をしてくれた人は私より年下だった。どうも高校の後輩でもあるようだった。あえてその話はしなかったが私は少しうれしかった。講師紹介の段になって、市原先生は病理医ヤンデルとしても有名で、というようなことを言うので、まだその名乗りは有効なのかと思ったし、医者の業界の世間一般的な話題に対するアップデート感覚なんてこれくらいゆっくりなんだよなということがおかしかった。私はもうとっくに病理医ヤンデルではないと思っていた。しかし私のインターフェースの少なくとも何十パーセントかは、まだ病理医ヤンデルであるらしく、それはきっとロケットから地表を眺めたときにやけに真っ茶色に見える砂漠の部分みたいなのの、海でも人家の明かりでもない荒涼とした、死の風のテクスチャのきめのやたらと細かいの、宇宙飛行士にとってはやけに切なく目につくものなんだろうなという感じの、地球の地図状壊死領域に相当するものだよなと、茶色い地球のニュアンスに包まれてひとり沈鬱な状態となり、その心を体表まで届けることなく漫談のようにしゃべって講演を終え、しずかな拍手をうけて家に帰った。