したたまについてしたためる

学生や研修医の学会発表を指導。自分で発表するのではなく若手に発表させる。しんどいなーと感じる点と楽だなーと感じる点とがある。しんどいほう。何がしんどいって、学生や研修医の仕事が自分より遅いことだ。遅くて狭くて浅い。あたりまえだ。私はおじさんなのだ。当然だ。過程を経て誰もが育っていく。それでいいのだ。だから、早め早めにプレゼンを作ってもらう。学会当日までに「その研究が持っていた本来のクオリティ」に達しようと思うと大変だ。プレゼンのできが悪くても本人が満足ならそれでいい、みたいな価値観は持っていない。たとえばひとつの症例を報告するとして、その報告内容がしょぼければ、医学にも、医療にも、主治医にも、患者にも悪い。これはしんどい。

では逆に楽だなーと感じる点はなにか。それは学会発表が終わったあとの、「だからなんなんだ」というあの独特の呆然とした喪失感を感じなくて済むということだ。自分の発表が終わると必ず喪失感というか不全感というか、とにかく独特のダウナーな感情が襲ってくる。しかもその不全感というのはどうやら研究がうまくいったかどうかとはあまり関係がなく、「こんなことをしたところで、世界という大海原に対して結局私はさざなみひとつ立てることもできずに朽ちていくのだ」というような、うーん、でもそういう自己効力感のなさだけで説明できるものでもなくて、どちらかというと諸行無常に直面させられたときのような気持ちになるのだ。とにかく学会だけじゃどうにもならんからなと思って今度は発表データを論文にするのだが、論文になったとしてもこの不思議な陰性感情はなくならずむしろ大きくなっていく。学術をやるとき、この、「やるにはやったけど」という猛烈な灰色がかった感情と毎回戦うことになる。終わった直後に一番大きな後悔の波が来る。学会の夜は憂鬱だ。そういう気持ちがなるべく来ないように事前にしっかり準備をして、八方に目配りをし、たくさんの人々の意見を取り入れて、少しでも実のある発表になるようにとがんばっているのだけれど、それだけやってもやっぱり発表が終わると、なにか足りなかったような感覚と、なにか失われたような感覚にさいなまれる。学会発表や論文執筆だけではなく講演のときもそうだ。というか毎日帰宅するときすらそういう感じだ。自分の仕事が終わったあとにやれ打ち上げだ、やれ懇親会だ、といった盛り上がり方をできる人がたくさんいるけれど、私は仕事が終わるとわりといつもがっかりとしている。ところが、学生に発表させると、こういったぐちぐちとしたジレンマを一切感じなくてよい。学生が精一杯発表したものを見れば100%喜ぶことができる。学生が喜びを爆発させて開放感にひたるのを見て、仮にそれが自分で作ったデータ、自分で整えた論旨だったとしても、学生が発表したあとには今のような不全感はあまり沸き起こってこない。それが楽だ。自分で発表をしないことによる楽さというのはそのへんにある。そのへんにしかない。


盛夏において女性や太った男性はしばしば下乳のあたりをタオルやハンカチで拭くらしい。これと似たような「皮膚のせまっくるしい場所へ汗をかく現象」として、たとえば睾丸のつけねのあたりがむれることがある。世間で「チンポジを直す」と言われている現象の一部はこの「ひっつき気味になって汗ばみそうになっている睾丸をうごかして空気を入れ替える」という目的を持っている。胸の場合は下乳という言葉を用いるようだが睾丸の場合は下玉とでも呼ぶのだろう。……突然なんの話だ、とびっくりした人に本ブログのタイトルを送る。がっかりしただろう。なんなんだよと思っただろう。何かが解決された小さな感動とともに結局この時間ってなんだったのかと疑問に思っただろう。それが私の、学会発表後の気持ちの色温度にかなり近い。今のあなたのような気持ちの降下を私は毎回感じている。それをわかっていただきたくて、いろいろ考えた結果出てきたのが下玉。自分のことを天才だと感じる。