一日のうちにソイラテを3杯、朝昼晩、それぞれ異なる場所で飲む機会があり、その間ずっとうろうろあちこちで違う仕事をしていたのだけれど、夜になって猛烈に腸が動いて少し下し気味となった。牛乳でお腹をやられる人はよく聞くけれど豆乳がだめなパターンもあるのかと思ったが「むしろカフェインのとりすぎなのでは?」と言われてたしかにとうなずくところがあった。
国立がんセンター中央病院で研修していた17年前、東銀座のタリーズをはじめとするあちこちでコーヒーを飲みまくっていたら頻脈から不整脈になってしまい、それから数年くらいはカフェインを控えていたのだが、喉元をすぎたようにここのところまたカフェインを過剰摂取していた。気を抜くと過剰になってしまう。刈り込みこそが人間らしさを作っているというのに不調法なことだ。
夕方から講演があり朝からスーツを着て出勤。ワイシャツにネクタイは夕方に締めればよいのだけれどなんとなく気合でも入れておくかと思い朝からネクタイ着用とした。最近だいぶ寒くなってきたのでワイシャツの上にベストを羽織る。出勤してジャケットを脱いでしばらくメールの返事をし、始業してしばらく働き、ときどき廊下を歩いているとやけに患者から道を聞かれる。レントゲンのお部屋はどこですか、中央採血室はどこですか。そこで気付いたのだがたしかに今日のわたしはいつも以上に事務員風というか、モデルハウスの案内スタッフやカフェバーのコンシェルジュみたいな出で立ちになっている。そういうことなら今日はもうおじさん病理診断しないでどんどん道案内しちゃおうかな、と一念発起するのだけれど、あいにく、病院の中にさほど用がないわたしは中央採血室がどこか一瞬よくわからなくてしょうがないから患者と連れ立って適当に歩き出すしかないのだった。道案内すらまともにできない。わたしにできるのは病理診断だけである。
「病理医はAIに仕事を奪われますか?」とたずねられる機会がとんと少なくなった。昔は学生といえばAI、研修医といえばAIと給料、専攻医といえばAIと給料とワークライフバランスに関する質問というくらいに誰もかれもがAIのことを気にしていたのだけれど、たぶん、AIが当たり前になりすぎてかえってどうでもよくなったのだろう。今のわたしならAIによって病理診断という仕事がどれだけおもしろく深くなるかを語ることもそう難しくはないのだが聞かれないので答える機会がない。なーんだ、ならいいやと思ってAIに対する興味を失って勉強しないでいると、おそらく数年後くらいにまた周期的にブームになって「AIどんなかんじですか?」みたいな質問が矢継ぎ早に飛んできてわたしはおろおろとする。
「AIにも苦手な領域があって、そこは人間がやらないといけない、だからAIがあっても仕事はなくなりませんよ」という回答は嫌いだ。そういう代替物としての自分みたいな観点で答えてしまえば質問者の思う壺ではないか。しかしわたしは同時に思う。質問者の思う壺とはなんだ。思う壺とは。思うという動詞もしくは形容動詞(?)と壺になんの関係がある? 上弦の伍・玉壺(ぎょっこ)ということか? 語源を調べると壺とは壺振り賭博のこと、つまりいわゆる丁半バクチである。したがって思う壺とはギャンブル的にてきとうなことを言ったら当たりましたというくらいの意味だということになるだろう。したがって「質問者の思う壺」とは「質問者の思う三連複」とか「質問者の思う大豆相場」などとも交換可能だということになる。やーいお前の父ちゃんカイジ~