地方会の利便をはかるため、某大学講座のサーバに置かせてもらったデータ(個人情報削除済み)を参加者たちに周知したのだが、ファイルの都合上、ちょっとアクセスの仕方が面倒なものになってしまった。しょうがないので周知のメールにPDFを添付して、「これこれこのようにして見てくださいね」と図入りで説明をした。
しかし、アンケートには少数ではあったが、「ファイルが見られませんでしたので説明をお願いします」という感想がとどいた。
なんっにも読まねぇな! てめぇらはほんとに! 書いといただろ! 読めよ!
とは言えかくいう私も最近は「説明書」を読まない。書いてあれば読むなんてのはもはや幻想なのかもしれない。
むかしの私はファミコンを買えばファミコンの説明書を読み、カセットを買えばカセットひとつひとつの説明書を読み、プラモを買えば組み立て図の横に書いてある文章も読み、親父が買ったビデオデッキや扇風機の説明書までたんねんに読んだ。しかし、あのころの習慣はちかごろ一切発動しない。雀踊り百まで忘れずではなかったのか。雀じゃないし踊りでもないからしかたないのか。なんかいつのまにかこうなっていた。
スマホの説明書も自動車の説明書も読まない。PCほど高価なものであっても読まない。マウス程度の小さな説明書だって読まない。
読まなくなった理由はなんだ。活字なら何でもそれなりにおもしろさはあるはずなのに。うーん。「どうせ言い訳しか書いていない」という目で見ているからかな。いまどきの説明書は、売る側の都合、売る側の免責ばかり説明しているように思う。使う側が知りたいことは書いていない。だから読む気がしない。
つまりはメーカーの怠慢なのか。そんなこともない。なぜなら知りたいことは検索した先で見つかるようになっているからだ。冒頭から順序立てて読まなければいけない説明書よりも、検索で一発頭出しできるウェブの説明を潤沢にしたほうがサービスとしては優れているだろう。
検索のほうがべんり。通読のシステムはどんどん廃れている。長文の説明書なんてもはやエクスキューズにしか使われていない。私自身も検索しかしないのだ。そのくせ、人にはPDFを送って「読めよ!」とか言っているのだから、まったくしょうがない。
私がメールに添付したPDF、果たして何人が開いて読んだのだろう。ほとんど読まれていないのだろう。とはいえ、単発の研究会の資料をくばるのにいちいちFAQをオンラインに解説してGoogle検索でひっかかるようにできるわけもない(会員にだってその発想はない)。読まないPDFを配り続けるしかない。
個別具体的な情報の伝達が世界中でちょっとずつ鈍化してきているのかもな。
鈍化している? いや、違うか。これがデフォルトなのか。
私がこれまで、自分の言葉の通じやすいコミュニティに引きこもっていたために、ローカルで最適化されたコミュニケーション手法によって過剰な情報しかやりとりしてこなかったために、いまさら社会の「通じなさ」に驚いているだけか。PDFいっこ添付すれば全部伝わるだろ読めよとか言っていたけれど、それは本来、社会に適したコミュニケーションの方法ではない。そりゃそうか。気づくのが遅いなあ。
社会のあちこちに断層がある。インピーダンスの異なる物質に満ちあふれていてレイリー散乱まみれでスペックルにうずもれている。私たちはノイズでぼんやり見づらくなった状態でしかお互いを見られない。ノイズの除去は理論的に不可能だ。なぜなら彼我にはかならず距離があるからで、距離があれば必ずそこには場があり、場があればそこにはかならず間質があって、間質は常に多様でアンコントローラブルだからだ。したがって単一の観察方法に頼っている限り、私たちはお互いのようすをノイズ混じりでしか捉えることができない。だからこそ私たちは、いつも無意識に、複数の角度から情報を集めて組み上げようとする。可視光線で情報を拾いきれないのなら、音とか、温度とか、空気のながれといった、異なるモチーフによって別様に世界をまさぐる。そうすることで、ノイズの向こうでなにやら動いてしゃべっている人たちが、どんな表情で何に臨んで何を望んでいるのかを、総体として感じ取ることができる。できることがある。それが社会における本来のコミュニケーションだ。今も昔も変わらない、本来のやりとりとはそういうものだ。
しかし私は社会に出ないまま大人になった。そしてまんまと「こっちは全部情報出してんだから察しろよおじさん」になっていた。いやになっちゃうね。もっと社会にやさしくならないとね。と、これだけ説明書きをしておけば、とりあえず読んだ人にとって私は「がんばって世界とコミュニケーションを試み続けている心のやさしいおじさん」として認識されることだろう。読まないやつのことは知らん。読まないほうが悪い。