マルセルに物申す

「おちつけ」の企画や幡野広志さんとの対談、SNS医療のカタチのあれこれなどでほぼ日に何度か載せてもらったためか、毎年、年の瀬くらいにほぼ日手帳が届く。ありがたいしうれしい縁ではある。ただ私はほぼ日手帳を自分で買い、手帳カバーだって気に入ったやつに買い替えて使っている(今年はMOTHER2の革のやつだ!)ので、正直、送ってもらわなくていい。そのぶん別の誰かに送ってあげてほしい。

ただまあこれを直接ほぼ日に伝えても、「ではよろしければお近くのどなたかにお譲りください」とか言われちゃうんだろうなって思って、言えてない。言えない。

知らない人からいきなり送られてきた献本は自腹で送り返すことになんのためらいもないのだけれど、知っている人、一緒に働いた人から送られてくる手帳を送り返すのはさすがの私でも躊躇する。結局今年も受け取って、検査技師にあげた。ぐだぐだ言ったけれど総括としてはありがたい。正直にここに書いておく。それに越したことはない。



こういうやりとりから生まれる社会関係を、もっと素直に受け取れたら楽だろうなと思う。



贈与が関係をつくるなんてことを言いだした学者はなにもわかっていない。たしかに贈与はマジョリティにとって関係の要になっている。世界のところどころ、そのときどきの文化を、最大公約数的に評価すれば、互酬性のあるなしにかかわらず贈与がキーワードとして浮かび上がってくる。それはそうだろう。しかしそれは机上の空論というものだ(フィールドワークだから机上じゃないよとかそういうことを言いたいわけではない)。解像度が甘いと思う。論文にすることで失われる一例のあやを私たちは忘れてはいけない。「贈与と憎悪は一文字違いだね。よとおの違いってだけじゃなくて、yがあるかないか、くらいの子音ひとつだけの違いだよね」みたいなことを四六時中考えている、私のような人間が、世界各国で息を潜めて、贈り物を両手でうやうやしく受け取ってためいきをついている。どうせ関係をひもとくなら、ひもの結び目の間に挟まったワタゴミのような私のことまでなぜ目がいかないのだ。文化人類学者というのは自分の論文のつじつまがあった瞬間にフィールドからデスクに向かってダッシュで帰ってしまう。そういうところほんとよくないよ。それって医者とおんなじじゃん。医者もまた、自分の論説の矛盾がなくなったタイミングで観察を終了させてカプランマイヤーを書いて真実だと言い張る類の生き物である。あんたらたまに科学を嫌うけどそれ思いっきり科学の手口だからな。




受け取るのがいやだと言っているわけではない。それを言ったら渡してくれる人に失礼だから言わない。……いや違うな、これだと言ってることになる。そうじゃない。本当に、いやだという単純な感情では表せない。正面切っていやだと言いたいわけではない……ああもう、安岡章太郎(※まァいいや、どうだって、の意味)。「お金があるからそうやって、人からもらえるものを平気で要らないって言えるんでしょ」みたいなことをいうアルパカ(※バカと書くと怒る人がいるので最近はアルパカと書いている)の靴の中敷きの先端部に新種のカビとか生えてほしい。そういうことでもない。

この複雑な部分と向き合うのがめんどくさいという気持ちくらいは、もう少したくさんの人に共有したい。わかってもらえることは少ないだろうな。

とはいえ「人から物が送られてくるストレス」を感じることは、決してネガティブな意味だけにはおさまらないだろう。人間がレジリエントであるためには「ままならない刺激」をそれなりの頻度で受けるほうがいいのではないか。自分で意のままに設定した一定の刺激というのではなく、忘れた頃に、意図していない方向から、意表を突く感じで飛び込んでくる、ちょっと迷惑でちょっとわくわくする扱いづらい刺激、そういうものを受け止め続けることで、皮膚の角質がほどよく機能して表面に居着いた常在菌ごと剥がれ落ちて結果的に肌がきれいでしなやかで防御力も高い状態で保たれる。そういうことは確かにある。



人に物を送りつけるタイプの人全般が苦手だ。DMは滅んでいいし、封書を送ってくるとかまじでアルパカ(唾液がくさそうなバカ)。しかしこうやって書きながらも、かつてたまに西野マドカから送られてきた本だけはいつも楽しみだった。むずかしいな。言い表すことが難しい。いや、簡単なのか。単純なのかもしれない。こじらせた子どもなのかもしれない。ゴジラがこじらせたらコジラだな! えっなんでコジラって一発でカタカナ変換できるの?